あきらない心が、喜びを呼び込む|天理教の「たんのう」について

あきらない心が、喜びを呼び込む|天理教の「たんのう」について

今日も信仰は続く

こんにちは!『今日も信仰は続く』をご覧いただきありがとうございます。桑原信司です。気軽に信ちゃん(@shin0329)って覚えてもらえたら嬉しいな。

今日は本題に入る前に、少しだけ頭の体操を。知っている人はスルーして欲しいんですけど、知らない人はぜひ解いてもらいたいクイズを紹介したいと思います。

それはこちら!

「雨降り族」という人たちは、雨降りダンスを踊ることで「必ず」雨を降らせることができます。それはなぜでしょう?

最近話題の映画「天気の子」では、”祈るだけで空を晴れにできる”という不思議な少女・陽菜が登場しますが、雨降り族はその逆で、ダンスを踊れば必ず雨が降るんです。

それも高確率で…とかではなく、必ず。100%です。

さぁ、あなたにはわかりますか?ちょっと考えてみて下さい。

あ、ググっちゃだめですよ!もうちょっと考えてみてから、下のボタンを押してね!

A.雨が降るまで踊り続けるから

どうですかね? 頭の柔らかい皆さんは簡単に解けてしまいましたか?

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「雨降り族」が教えてくれること

なんだよそれ!ってなった人。同感です。僕も最後まで答えがわからなかったので、答えを知った瞬間「キィーッ!」ってなりました。笑

けど、確かにそうなんですよね。雨が降るまで踊り続けていれば、”雨降り族は必ず雨を降らす”は嘘ではなくなります。

彼らはちょっとズルいけど、「あきらめない」という心構えは、どんな状況にあってもチャンスを呼び込みます。

バスケマンガの名作「SLAM DANK」第69話より引用

そのチャンスを掴むために、最後まであきらめずに頑張り続けた人だけが手にすることができるものってありますよね。勝利以外にも。

あきらめたらそこで試合終了ですよ…?

僕が信仰している天理教では「たんのう」という教えがあります。

どんな教えかというと、天理教の学生向けのWEBマガジン『Happist』にとてもわかりやすく書かれていると感じるので抜粋。

「たんのう」とは、どんな時も喜ぶことだといいます。喜ぶとは、今を受け入れるということ。喜んでやっていれば、たとえ一歩一歩の足取りは遅くても、どこまでも登っていけるかもしれない。

15歳からの教理 第1回『たんのう』

目の前にどんなことが起こってきても、それを受け入れて喜ぶ。その喜びを胸に、また歩いていく。これが天理教の「たんのう」の教えだと思います。

しかし、今まさに辛く悲しい出来事に悩んだり苦しんだりしている人にとっては、なかなか難しくて受け入れがたい教理かもしれません。

それについては、天理教の公式HPの説明がわかりやすく説明しているのでご覧ください。

苦しい状況の中でたんのうするとは、単に歯を食いしばって我慢したり、泣く泣く辛抱しんぼうしたりすることではありません。これで結構、ありがたいと前向きに受けとめ、心を励まして踏ん張ることです。また、そこに運命の切り換わる道が開けてくるのです。したがって、たんのうはあきらめの心情ではありません。

たんのう | 天理教・信仰している方へ

たんのう」は今を受け入れる心遣いではありますが

「もういいんです、私がダメだからこんな結果になってしまったんです。」

という後ろ向きな「あきらめ」の心ではありません。

むしろその逆で、あきらめなければきっとこの出来事を通して見えてくる「喜び」があると信じさせてくれるような、勇気と希望に満ちた教えだと思うのです。

人生は喜んだもん勝ち

勇気と希望を忘れずに、どんな出来事にも諦めずに立ち向かえば、見落としていた「喜び」に気がつくかもしれません。

それ以外にも、何年後かに「あの出来事があったから、今の自分があるんだ」と喜べているかもしれません。

辛いことばかりの人生だからこそ、最終的にどれだけ喜んで暮らせるか、が大切なのです。

先日読んだ、『メモの魔力』の著者であるSHOWROOM株式会社の代表取締役の前田裕二さんの別著『人生の勝算』にも、こんな一節があります。

この本を書こうと思ったのは、今、不幸や苦境に直面していたり、自分から見える景色が真っ暗だ、という人に、ほんの少しでも頑張る勇気を持ってもらいたかったからです。

人生というドラマの中ではしばしば、自らではコントロール不能な何らかの外部要因が、一見打ち手のなさそうな試練を与えてきます。そこで、決して、運命に屈してほしくない。突如立ちはだかる壁やハンディキャップは、後天的な努力によって必ず乗り越えられる。世間との競争にとらわれずに、他でもない、自分の運命と真剣勝負で向き合ってほしい。人にではなく、運命に負けないでほしい。

心が熱くなるようなメッセージですよね。かくいう僕にも、ハンディキャップはあります。

去年の交通事故で負傷した右足は、今でこそ普通に歩けるけれど、走ったり跳んだりといったことができません。

なので、スポーツはどれも満足にできません。唯一できることは、本当に、歩くことだけ。

ここで「この先ずっと歩くことしかできない、こんな身体なんだからしょうがない」と落ち込むのはただの「あきらめ」ですよね。

そうじゃなくて、「大きな事故にあったけど、生きているのがありがたい。自分の足で歩いていけるのが嬉しい」と、見つけ出した喜びを噛みしめるのが「たんのう」。

そして、この喜びで、僕はこれからの人生も切り開いていきます。ブログでも、講演会でも、教会生活でも、たくさんの人の心に「生きる喜び」を伝えていきます。

これも僕なりの「たんのう」。諦めずに、すべての事柄のなかに喜びを探して、そして周りの人とその喜びを分かち合うための、前向きな心の遣い方。

僕は今後も、天理教の仲間たちと喜びを分かち合って前向きに生きていきます。良かったら、あなたも一緒にどうでしょう?

「同じ窯の飯を食べた仲」ではなく「同じ喜びを分かち合う仲」になれたら、嬉しいな。

そのときは、どうぞよろしくお願いします。それではっ!

合わせて読みたい

振り返ってみれば、僕の信仰はいつも「苦難の中でも喜びを探す」ことをしていました。

以前お招き頂いた講演会でもお話した、僕の人生と信仰の物語。ぜひ読んでみて下さい。

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