あなたにとって信仰とはなんですか?——僕にとって信仰は「灯り」です

あなたにとって信仰とはなんですか?——僕にとって信仰は「灯り」です

信仰のある暮らし

こんにちは!『今日も信仰は続く』を見ていただいてありがとうございます。桑原信司(@shin0329)です。

信ちゃん
信ちゃん

気軽に信ちゃん、って覚えてくれたら嬉しいな~!

今日はきっと(?)みなさんが一番気になっているであろう「僕が天理教を信仰することになったきっかけ」について、そろそろお話しておこうかなと思いまして。

たぶん今どき、神様を信じている人って少ないと思うんですよね。だからこそ、ここで発信するのもなんだか恥ずかしいんだけども(笑)

それでも、これは僕にとって、とてもとても大切な「価値観」のお話。

お時間のある人は、どうぞお付き合いください。

スポンサーリンク

天理教の教会の長男として生まれて

自宅の玄関にて

結論から言ってしまうと、僕はそもそも教会の長男として生まれたので、生まれたときから「教会の跡取り息子」だったんですよね。笑

けど、なかなか「信仰心」みたいなのは掴めなくって。

そこにはもちろん焦りもあったし、葛藤もあったけど、なにより僕が感じていたのは「息苦しさ」でした。

同級生たちが目の奥を輝かせて「将来の夢」を語ったり、学校の授業で職業体験をさせてもらったり、テレビで紹介されるいろんな職業の人に憧れたりするなかで、

僕は…大きくなったら家を継がなくちゃいけない

という責任感が、頭にこびりついて離れなかったんです。

だから、当時の僕に「あなたにとって信仰とはなんですか?」と聞いたら、きっと「しなくちゃいけないことです」と答えていたでしょう。

信仰を全否定するようなった高校生

ところが高校生1年生の秋、その価値観はガラガラと音を立てて崩れます。

家族の中で誰よりも信仰熱心だった、母親がくも膜下出血で亡くなったからです。

それまではなんとなく「神様はいるかもしれない」と思っていた僕でしたが、この日をきっかけに全否定するようになりました。

あぁ、神様なんてやっぱりいないんだ。信仰って、くだらないな。

そう思いました。きっと、当時の僕に「あなたにとって信仰とはなんですか?」と聞いても、無視されてしまうでしょうね。

寂しさと、生きづらさのなかで

映画やドラマだと、母親を亡くした家族は、失意のどん底に落ちて嘆き悲しむ日々を…となるのですが、僕たち家族にはそれができませんでした。

どれだけ泣いても母親は帰ってこないし、時間は容赦なく進んで、お腹はペコペコになって、学校に行かなければ卒業も危うくなって…「日常」は毎日欠かさず、平気な顔をして僕らのもとへやってくるからです。

「普通に暮らすこと」で、僕たち家族はいっぱいいっぱいだったんですよね。とくに暮らしのことは本当に母親に甘えっきりだったため、たくさんのトラブルが発生していきました。

ですが、そんなピンチを迎える度に、たくさんの人が手を差し伸べてくれたんです。みんな口をそろえて「あなたのお母さんには、本当にお世話になったから…」と言いながら。

――そっか。お母さんはこんなにたくさんの人達を救っていたんだ。それが「神様を信じて暮らす」ってことなんだ――

そう思えたことがきっかけになって、僕はもう一度信仰と向き合うようになりました。

当時の僕に「あなたにとって信仰とはなんですか?」と聞いたら、なんて答えるかな?

きっと「母のような人になれる教えです」って答えると思います。

交通事故にあって失ったもの

それからの僕は、宗教学科のある大学へ進学し、宗教学を学びつつ、天理教の教えについてもたくさん勉強しました。

もちろん勉強だけではなく、それらを生活に反映させる「信仰のある暮らし」を大切にしながら。

が、25歳のとき、再びそれまでの価値観を大きく崩すような出来事に見舞われたのです。

それは、トラックとの衝突事故を起こし、生死の境をさまようという経験をしたこと。

なんとか命は助かりましたが、結果的に顔や体にたくさんの傷跡が残り、また右足には現在も軽度の障害が残っています。

それも今では受け入れることができているので、こうやって文章にすることができますが…当時はもちろん受け入れがたい現実でした。

変形した顔、動かない右足、そして母親の死因でもあった、くも膜下出血による後遺症。本当に悩み、嘆き、そして絶望しました。心は暗い闇で覆われて、希望を持てない日々を過ごしていました。

それでも、そんな絶望のなかから僕を救い上げてくれたのも「信仰」だったんですよね。見えなくなっていた「生きている喜び」を、優しく気づかせてくれました。

俳優の星野源さんも、自伝『いのちの車窓から』にて、くも膜下出血の手術を終えたときの喜びをこのように綴られています。

体という乗り物を星野源という精神が操縦していることの奇跡の実感が、手術後はさらに明らかに、リアリティを持って湧いてくる。

星野源『いのちの車窓から』より

退院してすぐ手に取った本なのですが、ここを読んだ時「僕も同じだ!」と感動したんですよね。少しずつ回復していく「体という乗り物」は、今日も僕の思い通りに動いてくれている。少し不自由なパーツも確かにあるけれど、これって本当に奇跡だな、と。

そんなことを考えていると、次のような疑問が浮かびました。

「じゃあ、これからはどんなふうに生きていく(操縦していく)べきなのだろうか?」

「そもそも、この「体という乗り物」は、本来はなんのためにあるのだろうか?」

その答えもまた、「信仰」が教えてくれました。

「やさしい心になりなされや。人を救けなされや。癖、性分を取りなされや。」

稿本天理教教祖伝逸話篇123『人がめどか』より

この言葉が、僕の再出発の背中を押してくれたような気がします。

どんな絶望のなかでも、灯る光

誰にだって、生きているうちはどうしようもないくらい悩むこと、苦しむことがあると思います。そしてその多くは、「答え」が見つけられないまま、さらに自身を苦しめることがあります。

けど、僕の人生には、母が残してくれた「信仰」というライフスタイルがありました。

その事実に、どれだけ救われたことか…。

だから僕にとって「信仰」は、どんなに深い絶望の中でも、冷えた心を暖め、そして喜べるほうへと導いてくれる優しい「灯り」なんです。

明るくて見通しのいい人生だと、案外気づかないものなのかもしれませんが、僕はこの先も消えないように、大切に守り続けていきたい。

そして、今日も信仰は続く。

そしてこれからは、自分にしてもらって嬉しかったことを、他の誰かにしてあげられるような人生にしたい。

暗闇で凍えている人にとっての灯りになりたい。

たくさんの人の心に灯りを灯していきたい。

そのためにも、僕の胸に灯ったこの「灯り」は、この先もずっと強く輝かせていたい。だから、今日も信仰は続けていこうと思えるのでした。

それではまた、次の記事でお会いしましょう。信ちゃん(@shin0329)でした!

タイトルとURLをコピーしました