これは活動というより、生き方そのもの。
こんにちは!『今日も信仰は続く』を見ていただいてありがとうございます。桑原信司(@shin0329)です。

気軽に信ちゃん、って覚えてくれたら嬉しいな~!
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僕は天理教を信仰していて、学生時代からよく被災地支援や献血応援活動、また地域の清掃ボランティアなどにも積極的に取り組んできました。
(こんなこと書いていると、なんだか意識高い系アピールをしているみたいで恥ずかしいのですが…)
もちろんすべて自主的に参画していったわけではありません。天理教を信仰している父親に、半ば強制的に参加させられた活動も多いです(笑)
でも、こうやって振り返ってみたときに、胸の奥に温かな気持ちが湧いてくるのは、きっとあの時の僕は「ひのきしん」にやりがいを感じていたからだと思うんですよね。
さて、今回の記事では、そんな天理教の「信仰のある暮らし」には欠かせない、「ひのきしん」という教えについてわかりやすく説明していきます。
それではいきましょう!
天理教の「ひのきしん」

天理教といえば、ひのきしん。ひのきしんといえば、天理教。
これはもう、天理教を信仰している人にとっては耳にタコができるくらい繰り返し聞かされてきた教えだと思います(苦笑)
しかし逆に、天理教を信仰していない人にとっては、なにを指している言葉なのか、まったく見当もつかない言葉ですよね。「ひのきしんっていったいなんだ…?」と感じていても、なんら不思議なことではありません。
なので、まずは「ひのきしん」という言葉の意味から、かんたんに説明をさせてもらいますね。
「ひのきしん」という言葉が指すもの

この「ひのきしん」という言葉について、ひとことでかんたんに説明するなら「日頃の感謝を態度であらわす」ことだと言えるでしょう。
ニュアンスとしては「恩返し」という意味合いも含んでいますね。もちろん、神様に対しての、です。
これはなぜかというと、僕の信仰している天理教では、人間の身体は神様から借りているものだと教えられるからです。
パイロットが無事にフライトできるよう、機体がエンジニアからありとあらゆる整備を受けているのと同じように、僕らの身体は24時間×365日、神様からありとあらゆる守護を受けて生かされています。
僕らがこの世界を、無事に生きていけるように。
つまり、「僕は今も生きている」というまぎれもない事実を、「僕は今も神様によって生かされている」と再認識することから、天理教の信仰は深まっていくのであって、これが僕たち信仰者が神様に「ご恩」を感じている理由となります。
ですから、その延長線上には「神様にお礼がしたい」という気持ちがあり、さらにこれを実際の行動に移すというステップが生まれてきますよね。
天理教では、このような「感謝の気持ちを行動によって表現したい」という動機からなされる行為をすべて「ひのきしん」と呼び、積極的にやっていこうぜ!と促しているというわけです。
「ひのきしん」のあり方は人それぞれ

この「ひのきしん」のあり方は、人それぞれです。なぜなら、「ひのきしん」には祭儀と違って、決められたフレームワークがありませんから。
災害救助に行くことも、ひのきしん。
出会った人に挨拶することも、ひのきしん。
勉強することだって、ひのきしん。
いやいや、もうなんでもありじゃん!って思ったかもしれませんが…
そうですね。実際なんでもあり、だと思います(笑)
なぜなら「ひのきしん」とは、具体的な行動(プロジェクト)を意味している言葉ではなく、信条(イデオロギー)を指している言葉だから。
被災地支援をする、近所のゴミ拾いをする、などといったプロジェクトそのものが「ひのきしん」になるわけではなく、まず生きる喜びから生まれる感謝の心があって、その信条(イデオロギー)が結果的に行動や生活の仕方に影響を与えていくというわけですね。
ですから、「ひのきしん」はきわめて自己完結的。当事者が「ひのきしん」だと認識していれば、それは周囲の評価など関係なく、そのまま神様に「感謝の気持ち」を届けられる行為となるのです。

ひとこと話をするだけでも「ひのきしん」って言うよね!
漢字で書くと「日の寄進」

ちなみになんですけど、この「ひのきしん」に漢字にすると「日の寄進」と書きます。
「寄進」とは、神社やお寺に金銭や物などを寄付する行為のことです。たとえば千本鳥居で有名な京都の伏見稲荷大社だと、今でも鳥居の寄進ができますね。

ちなみに気になるお値段は、奉納場所や鳥居のサイズによって異なりますが 17万5000円 ~ 130万2000円 とのこと。貧乏人の僕には無理み…!
しかし天理教の場合は「日の寄進」と教えられます。以前別の記事にも書きましたが、天理教の教祖であるおやさまは、金や物でお供えの価値を決めるということを好まれませんでした。
教祖は、「金や物やないで。救けてもらい嬉しいと思うなら、その喜びで、救けてほしいと願う人を救けに行く事が、一番の御恩返しやから、しっかりおたすけするように。」と、仰せられた。
『天理教教祖伝逸話篇』72 救かる身やもの
ですから、この「日の寄進」という言葉が意味するのは、神様に「日」を寄進する、つまり「時間の寄進」と考えるのが自然な捉え方でしょう。
これなら、どんな立場の人にだって「お供え」することができますね。
そして、この「時間」というものはお金や物と違って、自分から切り離すことができません。なので、つまるところ「日々をどう過ごすのか?」という部分が重要になってくるというわけです。
まとめ「僕たちは日々をどう生きるのか?」

それではここで、「ひのきしん」についてこれまでご説明してきたことをまとめてみましょう。
- ひのきしんとは、日頃の感謝を態度であらわす行為
- ひのきしんとは、プロジェクトではなくイデオロギーである
- ひのきしんとは、時間をお供えする行為である
- 時間は切り離すことができないので、結局は「どう生きるか」が重要である
つまり「ひのきしん」とは、神様への感謝を気持ちを生き方で表現することとなります。
そしてここでは「なにをしたか(成果)」よりも「どんなふうに生きたのか(過程)」が大切な基準となります。SHIEN学でいうところの「プロセス・パラダイム」ってやつですね。
僕たち人間は、やっぱり数字とか結果で物事を判断することに慣れていますから、しばしば数字を比べたり、結果に執着して落ち込んだり傷ついたりしてしまうけど…。
「ひのきしん」の魅力は、なんといっても神様と自分だけで完結することです。
「あ~今日も元気に生きていて幸せだなぁ!神様ありがとうございます!」という気持ちのままになにかに臨むとき、それはもう、じゅうぶんすぎるくらいに尊い「ひのきしん」の姿だと、僕は思いますよ。
【補足】ボランティアとの違いについて

この「ひのきしん」の教えを説明するとき、しばしば用いられるのが「まぁ…なんていうか、ボランティアみたいなものですよ」というフレーズ。
まぁ、実際に天理教の信仰者が「ひのきしん」としてやっていることの多くは、傍から見ればボランティア活動と酷似していることが多いうえに、「ボランティア」という言葉は誰もが好印象を抱いているので、こういった文脈で説明されることは多々あります。

正直、僕もよく言っちゃいます!笑
だけど、今回の記事で説明したように、「ひのきしん」はプロジェクトではなくイデオロギー。「ひのきしん」の精神で行う行為の選択肢のなかに、いわゆる「ボランティア活動」が含まれているという構造になっているわけです。
「ひのきしん」で、生きていく
やはり「ひのきしん」は、生き方そのもの。
今日も僕の身体は、しっかりと神様にメンテナンスされて体調は万全。五感も研ぎ澄まされているし、どんなことだってできそうです。あぁ、ありがたいな。
この感謝の気持ちは、今後も僕自身の「信仰のある暮らし」にきちんと反映させていって、神様にお喜びいただこうと思います。
明日はどんな「ひのきしん」をしようかな?
それではまた、次の記事でお会いしましょう。信ちゃん(@shin0329)でした!