宗教とお金の話をしようか。天理教の教会に生まれ、信者さんのお供えで育てられた僕が思う「お供え」の意義

宗教とお金の話をしようか。天理教の教会に生まれ、信者さんのお供えで育てられた僕が思う「お供え」の意義

今日も信仰は続く

お金の話を、グレーゾーンから引っ張り出してみるね。

こんにちは!『今日も信仰は続く』を見ていただいてありがとうございます。桑原信司(@shin0329)です。

信ちゃん
信ちゃん

気軽に信ちゃん、って覚えてくれたら嬉しいな~!

「諸行無常」という言葉はご存知でしょうか?

これは仏教の教えで、要するに「この世の一切は常に変化するから、永遠に変わらないものなど存在しない」という自然の摂理を表した言葉です。

この世に生まれたものは、いずれこの世から消えていく。これがこの世界の真理であるならば、なにかを「維持・運営」していく営みには、当然大きなコストがかかります。理に逆らい続けるわけですから。

今回の記事は、その「なにかを維持するために消費され続けるもの」として大きな領域を占める「お金」、とくに献金(お供え)について書いていこうと思います。

先にお断りしておくと、これは僕の個人の主観であり、必ずしも天理教の常識ではないということだけご了承下さい。

スポンサーリンク

「宗教かよ」というバッシング

今から7年ほど前、キングコングの西野亮廣さんが「クラウドファンディング」という仕組みを利用して新たなビジネスを展開しました。

クラウドファンディング(crowdfunding)とは群衆(crowd)と資金調達(funding)を組み合わせた造語で、インターネットを通して自分の活動や夢を発信することで、想いに共感した人や活動を応援したいと思ってくれる人から資金を募るしくみです。途上国支援や商品開発、自伝本の制作など幅広いプロジェクトが実施されています。

クラウドファンディングとは – READYFOR(レディーフォー)

このクラウドファンディングは、今でこそREADYFORやMakuake、CAMPFIRE などの複数の利用サイトが立ち上げられ、「誰にでも手軽に資本金を集められる手法」として広く普及してきましたよね。

しかし、西野亮廣さんがクラウドファンディングを始めたころは、その珍しい手法に対して批判的な意見が殺到したそうです。当時の様子を西野さんはブログでこのように綴られています。

オンラインサロンをやっていると「搾取だー!」「宗教だー!」と揶揄される機会が少なくないのですが、そういえば7年前にクラウドファンディングをやった時も同じようなことを言われたことを思い出し、実態が把握できない経済活動(金銭が絡む運動)を「宗教」と括ってしまう人達が一定数いることが分かります。

「宗教(=なんだか悪いもの)」としてしまった方が、それ以上考えなくて済むし、理解が追いついていない自分を否定しなくて済む(自我が保てる)ので、ラクなのだと思います。

【タダ働き!】「オンラインサロン」という悪徳宗教の実態!-西野亮廣ブログ

西野さんは後日、同ブログの「批判する時に『炎上商法』と『宗教』という単語を使うヤツ、終わってる」という記事で、バッシングに「宗教」という単語を使う人を批判されていますが、やはり僕自身にも思うところがありました。

僕、献金(お供え)で育ってきました

僕は天理教の教会に生まれ、信者さんの献金(お供え)によって育てられました。ちなみに、この環境は僕自身が望んだものではありません。当たり前ですが。

しかし事実として、信者さんによる献金を消費するかたちでここまで育てられてきたという自覚があります。

ですから、「よくわからないお金の動き」をバッシングする意味合いで「宗教かよ」という言葉が選ばれた背景に、バツの悪さというか、肩身の狭さを感じたわけなんですね。

お金の本質が輝く時代

ところが、ここ数年でクラウドファンディングは資金調達の手法として受け入れられ、多くの人が利用するようになりました。

僕が信仰している天理教では、お金の本質は「つなぎ」であると教えられますが、いよいよ現代ではこの本質が深くなってきたと感じます。

それまで「お金を支払うことによって得られるもの」は“モノ”でしたが、現代ではすっかり“体験や価値そのもの”へと変わっていきました。

たとえばこの記事で紹介したように、スマホでかんたんに被災地支援ができたりする時代ですからね。

ブロックチェーンなどの新しいテクノロジーも開発されてきていますし、今後もお金の本質である「繋ぎ」の可能性は、ますます輝いていくでしょう。

お供えとクラウドファンディングの違い

しかし、クラウドファンディングの悪いイメージが払拭されたからといって、このまま「お供え=クラウドファンディング」の認識が定着するのはマズいな、と僕は思います。

テクノロジーの発展によって「お金」が持つ本来の意義が発揮されやすくなったとはいえ、やはりお供えはfunding、つまり資金調達を指すことばではありません。

僕の信仰している天理教では、この「お供え」に関して、教祖であるおやさまはこのように仰せられています。

教祖は、「金や物やないで。救けてもらい嬉しいと思うなら、その喜びで、救けてほしいと願う人を救けに行く事が、一番の御恩返しやから、しっかりおたすけするように。」と、仰せられた。

『天理教教祖伝逸話篇』72 救かる身やもの

金や物ではない、とハッキリ仰せられているのが印象的なこのお言葉。それまでの常識だった「お供え=資産を献上する」という認識をここで否定されています。

同様のエピソードは他にもあり、たとえば同本の「7.真心の御供」という逸話には、貧しい生活にあっても、感謝の気持ちを込めて供えられたお餅を喜ばれ、逆にこれ見よがしに豪勢な供え物を持ってきた信者に対しては「ちっとも味がしない」とたしなめられる様子が収録されています。

このことからも、やはりお供えの本質は、金額の大きさや供え物の価値とはまったく関係のない「感謝や喜びの心」であることがわかりますね。

「自己表現」なのかもね

感謝や喜びの心を伴う行為は、すべて「お供え」になると思います。

とくに天理教では、金や物を供えるだけでなく、僕たち人間なら誰もが持っている資産である「時間」を供えることを「ひのきしん(日の寄進)」と教わります。

ひのきしんは、日々の絶えざる喜びの行いであり、その姿は千種万態です。信仰のままに、感謝の心から、喜び勇んで事に当たるならば、それはことごとくひのきしんとなります。 

ひのきしん | 天理教・信仰している方へ

この「ひのきしん」は、天理教の神様に捧げるものとしてかなり重要視されており、今日も多くの信仰者が様々な活動に取り組んでいます。教団をあげての災害救助や、里親活動などはわりと有名ですが、

  • 挨拶をすること
  • ゴミを拾うこと
  • 靴やスリッパをそろえること

「そんなことで?」と思われるようなことだって、生きる喜びや感謝の気持ちの自己表現なら、たとえ人間にはその価値がわからなくとも、神様にきっとお喜びいただける「お供え」になる、ということですね。

大切なのは「嬉しいな」「有り難いな」という気持ちを表現すること。それだけなのです。

金や物を供えてはいけない、というわけではない

もちろん、「金や物やないで」とのお言葉は「金や物は供えてはいけない」という禁止事項ではありません。

このお言葉は「人間がもらって嬉しいものと、神様がもらって嬉しいものは、必ずしも同じではないよ」ということを意味するものでしょう。

現在の「お金」の信用度の高さや用途の多様性は、天理教の教えが広まった江戸時代とはかんたんに比べられませんしね。

また、僕の家族がそうであったように、教会でつとめる人間のお給料や、教会の維持運営のために消費するものとして「お金」は欠かせないものになります。

封建社会であった江戸時代から、自由経済が発展して資本主義社会になったことも、「お金」の比重を大きくしてしまったように思います。

まとめ

というわけで、僕が「お供え」について思うことを記事にしてみました。

お供えは資金調達ではなく、個人の感謝や喜びの自己表現。一般的に「お供え」が連想させる献金は、あくまでその一部というわけですね。

ただ、天理教の教えが広まった江戸時代と違って、現代では「お金」の可能性はかなり発展しています。スマホで被災地や発展途上国に支援金を送れたりと、迅速で効果的な「人たすけ」が展開できるようになったからです。

しかし、いくら便利になったからといって「お供え」がそのまま「献金」と結びつくのは誤解を招きやすい。

やはり教祖に教えられた「人間がもらって嬉しいものと、神様がもらって嬉しいものは、必ずしも同じではないよ」という認識こそ、「お供え」の定義に強く結びつくものでなければいけませんね。

なによりも重要視されるべきなのは「感謝や喜びの気持ちを自己表現すること」ですから。

それではまた、次の記事でお会いしましょう。信ちゃん(@shin0329)でした!

タイトルとURLをコピーしました