【#今日も勉強は続く】天理教の「いんねん」について、仏教の「因縁」と比較して考察してみました

天理教で説かれる「いんねん」と仏教で説かれる「因縁」、それぞれどんな違いがあるのか知っていますか?

わかりやすい宗教学

人が真理を追い求める仏教と、神が元の理を伝える天理教。

こんにちは!『今日も信仰は続く』を見ていただいてありがとうございます。桑原信司(@shin0329)です。

信ちゃん
信ちゃん

気軽に信ちゃん、って覚えてくれたら嬉しいな~!

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「因縁」という言葉を知っていますか? これは古代インドで確立され、長い時間をかけてさまざまな解釈が生まれた思想・概念のことです。

日本でも一般的な慣用句として用いられたりしますよね。因縁のライバル、因縁の戦い…などなど。

そして今回は比較宗教学の観点から、仏教で説かれる「因縁」と、天理教で説かれる「いんねん」の教えについて、それぞれの成り立ちや教義的な意味合いを比べながら考察していきたいと思います!

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Ⅰ.仏教における「因縁」

では、まず初めに、この「因縁」という概念のルーツである、仏教の教えから紐解いていきます。

「因縁」のルーツは「縁起」

今よりはるか昔、紀元前6世紀ごろのお話。古代インドでは原始仏教(primitive Buddhism)が立教します。この原始仏教では「縁起」という教えを説きました。

「縁起」とは、すべての物事はって起こる、つまり全ての現象は原因や条件が相互に関係しあって成立している、という教えです。

この教えは、人生の悩みや苦しみから人々を救うため、「苦の原因」にピントを合わせる思想として説かれたました。人はなにに縁って苦しむのか?苦しみを生起させるものはなんだ?といったふうに。

こうして、苦悩の根源を12種類に分析して系列化した「十二支縁起(十二因縁)」という教えが説かれるようになりました。ここで解説すると長くなるので、詳しくはWikipediaでどうぞ。笑

因縁=縁起+因果?

時は流れて、インドでは「輪廻転生(生まれ変わり)」の思想が体系化されていきます。これはもともと古くから信仰されてきた「前世で積んだ善因の結果は、今世にも及ぶ 」という教えでした。

ところが、この輪廻転生の思想は「因果応報」の影響を受けて変容していきます。具体的には、過去・現在・未来の三世にわたって、自らの行いによる結果や報いは「善悪関係なく」必ず現れてくるんだ、という教えに変わっていったのです。

そしてこのタイミングで、「縁起」の教えも輪廻転生と同じように「因果」の教えの影響を受けて変容していきました。

時代や国と共に、教えも変わっていく

本来は、苦を滅して解脱する為に説かれた「縁起」の思想。しかし、時代の流れとともに、苦しい人生の原因は前世の自分の悪行に縁るものだと説く「因縁」の思想へと変わっていきます。

特に海を越えた日本では、それまでの先祖信仰の影響を受けて、この傾向がさらに強くなったのだとか。

近所のお寺の掲示板に、その特色が強く表れていたので紹介しますね。

このようにして、3000年以上前にブッダが説いた「縁起」の思想は、長い歴史のなかで少しずつ変容していき、現代の日本では宿命論的な厳しさをともなう「因縁」の教えが説かれるようになったというわけです。

Ⅱ.天理教における「いんねん」

さて、同じように「いんねん(天理教ではひらがな表記)」を説く天理教ですが、その文脈は「もとのいんねん」を主軸において展開されています。

「もとのいんねん」に漢字を当てるなら「元の因縁」。

「元」には「物事の主要的な部分。根幹。基礎。(広辞苑第6版)」という意味がありますから、それまで説かれてきた「因縁」の基礎、根幹となる教えだということになります。

天理教=「もと」を明らかにする教え

そもそも、天理教の教理の特徴として、積極的に「もと」を説くことが挙げられます。

それはつまり、他の宗教とは全く次元の違う、新しい世界観を構築する教えではなく、既存の世界観を支えてきた根源的な「真理(天の理)」を説く教えであるということ。

このことは天理教の聖典『おふでさき』にも記されています。

いまゝでもしんがくこふきあるけれど
もとをしりたるものハないぞや (3-69)

『おふでさき』第3号

心学道話や古記(言い伝え)に説かれていたとしても、「もと」を知っている者はいない。それを説き明かすのが「天理教の教理」であるという意味ですね。

ですから「因縁」についても例外ではありません。

すでに仏教用語から転じて、慣用句としても使われていた「因縁」の教えについてもやはり「元の因縁」を積極的に説きました。

天理教は「もとのいんねん」を説くために始まった

改めて先述の『おふでさき』を眺めてみますと、この聖典の冒頭部分は、「もとのいんねん」を明らかにすることの宣言から展開されていきます。

よろつよのせかい一れつみはらせど
むねのハかりたものハないから (1-1)

そのはづやといてきかした事ハない
なにもしらんがむりでないそや (1-2)

このたびハ神がをもていあらハれて
なにかいさいをといてきかする (1-3)

このところやまとのしバのかみがたと
ゆうていれどもハしろまい (1-4)

このもとをくハしくきいた事ならバ
いかなものでもみなこいしなる (1-5)

きゝたくバたつねくるならゆてきかそ
よろづいさいのもとのいんねん (1-6)

『おふでさき 第1号』

万代よろづよの世界一列、つまり全ての時代・全ての世界において誰も知り得なかった「もとのいんねん」を、訪ねてくる者には言って聞かせよう。

このような宣言をもって、天理教の教えは脈々と説かれていきます。

誰しも「元の理」に縁って生起している

それでは、結局のところ、「もとのいんねん」とはなんなのか。

これは、天理教における人間創造の神話である「元の理」にて明かされた全ての人間の存在根拠に求めることができます。

ただ、この「元の理」は非常に読解が難しいので、ここでは割愛しつつ、以下の『おふでさき』を引用して考察を深めます。

月日にわにんけんはじめかけたのわ 
よふきゆさんがみたいゆへから (14-25)

『おふでさき』 第14号

これは以前にも記事にもしましたが、天理教において「人間」という存在は、親神様の「人間が陽気ぐらしを営む姿を共に楽しみたい」という思召しに縁って生起した存在でしたね。

人間は「陽気ぐらし」を営むために生まれ、今も親神は人間を「陽気ぐらし」に導こうとしている。

この神と人間の関係性こそ「もとのいんねん」となります。

そして、この世の全ての現象は「もとのいんねん」に立脚しているというのが、天理教の教理の根幹でもあり、重要なポイントだと僕は思います。

Ⅲ.それぞれの比較

過去・現在・未来にわたって、善行は善を、悪行は苦を成すという「因縁」の教理。

もちろん、天理教は「もと」を明らかにしただけで、「因縁」そのものを説かなかったわけではありません。むしろ仏教と同じく、前世の因縁論や因果応報論を説いています。

このよふハあくしまじりであるからに
いんねんつける事ハいかんで (1-62)

せんしよのいんねんよせてしうごふする
これハまつだいしかとをさまる (1-74)

これからハよき事してもあしきでも
そのまゝすぐにかやしするなり (6-100)

『おふでさき』

いんねんというは心の道。

『おさしづ』明治40年4月8日

けれど、総じてこれらの「いんねん」は天理教の教えにおけるサブコンテンツ的な教理であり、教義の中心に据えられるのはあくまで「もとのいんねん」であることをよく理解する必要があるでしょう。

仏教の説く「因縁」と、天理教の説く「いんねん」の差は、この「世界の根源的な神の存在」にあるからです。

仏教の「因縁」と救済観

仏教が説く世界観には、絶対的な唯一神の存在はありません。全ての存在は、なんらかの原因・条件に縁ってそこに生じるものであるとしました。

この「縁起」の思想は輪廻説と結びつき、さらに因果的に、過去の「善悪の行為」が現在~未来における人生を左右するという意味の教えに変容し、今では宿命論的な「因縁」の教えとなりました。

よって、まずは執着心を無くし、そこから善悪や幸不幸という相対的な基準を超える価値観を手に入れる(悟る)ことこそが、仏教における救済の理想的なモデルであるといえます。

天理教の「いんねん」と救済観

これに対し天理教は、まず「元の神・実の神」である親神の存在を明らかにしました。

その上で、「陽気ぐらし」こそが人間世界の目指すべき到達点であり、また全ての人間の存在意義であるとしました。

そして、それを願う親神の意志によって生起した人間との関係性を「もとのいんねん」として説いたのです。

ですから、人生においてどんなに辛く苦しく感じることにでも、その根源には「親心」があります。僕らを「陽気ぐらし」に導こうとする救済への導きが。

かみがでてなにかいさいをとくならバ
せかい一れつ心いさむる (1-7)

いちれつにはやくたすけをいそぐから
せかいの心いさめかゝりて (1-8)

『おふでさき』第1号

まとめ

というわけで、仏教と天理教、それぞれの角度から「因縁」の思想について掘り下げてみました。

同じような意味を持っていても、「神」という概念の有無でこんなにも指し示す方向性が違いますから、面白いですよね。

僕は天理教の信仰者ですから、やはりこの「もとのいんねん」が自分にもあるということを考えると、不思議と心が勇んできます。「そうか、僕は世界を陽気ぐらしへと変えていくために生きているのか!」みたいな。

神はいるのか、それともいないのか。あなたはどっちだと思いますか?

それではまた、次の記事でお会いしましょう。信ちゃん(@shin0329)でした!

―参考文献―

  • 深谷忠政『天理教教義学序説』、天理教道友社、1977年。
  • 澤井義次『天理教教義学研究 —生の根源的意味の探求』、天理教道友社、2011年。
  • 中村元『原始仏教』、筑摩書房 、2011年。
  • 山折哲雄『仏教とは何か -ブッダ誕生から現代宗教まで-』、中公新書、1993年。

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