誹謗中傷が飛び交うネット社会で、僕が宗教家として伝えたい教えとは

SNSでの誹謗中傷に悩む人たちに、僕が宗教家として伝えたいこと|逸話篇135『皆丸い心で』より

今日も信仰は続く

ブドウのように柔らかく、瑞々しく。

こんにちは!『今日も信仰は続く』を見ていただいてありがとうございます。桑原信司(@shin0329)です。

信ちゃん
信ちゃん

気軽に信ちゃん、って覚えてくれたら嬉しいな~!

SNSが僕らの暮らしにどっぷり浸透してきた現代。まさに「いつでも・どこでも・誰とでも繋がれる」時代になってきました。

リアルの友人はもちろん、応援している芸能人や、共通の趣味で繋がったフォロワーさんの「今」を、タイムラインでまとめてチェックできるのは嬉しいですよね。

しかし一方、アンチコメントなどで「想定外の精神的ダメージ」を負うことも増えてきています。たとえば最近よく見かける、SNS での誹謗中傷とか。

いつでも・どこでも・誰とでも繋がれるからこそ生まれる「いつでも・どこにいても・不特定多数の人から攻撃される」という苦しみ。

そんな問題に対して、宗教家として提示できるものとは?

僕の考えをまとめておきたいと思います。

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誹謗中傷がなくならないのはなぜ?

そもそも、これだけ社会問題化しているにもかかわらず、なぜ誹謗中傷は無くならないのでしょうか?

SNS で繰り返される誹謗中傷を見ていると、当事者同士は「まったくの他人」であることがほとんど。

つまり、誹謗中傷の多くは「なんの関係性もない他人」に対して「私のこの強い怒りの感情をぶつけずにはいられない」という精神状態に陥っている人がやっているということ。

この精神状態は、ある意味「異常」だと言えますよね。

しかしなぜ、そのような異常な精神状態に陥る人が続出しているのでしょうか?

原因①「正義中毒」

脳科学的には、他人に「正義の制裁」を加えると、脳の快楽中枢が刺激され、快楽物質であるドーパミンが放出されます。

その快楽にやみつきになってしまう状態のことを、脳科学者の中野信子氏は著書『人は、なぜ他人を許さないのか?』のなかで、「正義中毒」と表現しました。

自分の属する集団を守るために、他の集団を叩く行為は正義であり、社会性を保つためには必要な行為と認知されます。攻撃すればするほど、ドーパミンによる快楽が得られるので、やめられなくなります。

自分たちの正義の基準にそぐわない人を、正義を壊す「悪人」として叩く行為に、快感が生まれるようになっているのです。

人は、なぜ他人を許さないのか?』より引用

この言葉は後日、Twitterでトレンド入りしていましたね。

つまり、正義感が強いために誹謗中傷に及んでしまうのではなく、そもそも「他人を叩きたい」という欲求に勝てなくなっているという精神状態になっている人が多いということです。

原因②日ごろの欲求不満による攻撃性の増加

「誰かを攻撃したい」という欲求が生まれる背景には、当人もすでに相当な心的ストレスを抱えている、と指摘する説もあります。

これを「欲求不満-攻撃仮説」といい、ザックリ解説すると「人間は欲求不満になると攻撃衝動が高まる」という理論。

とくに SNS の特徴でもある匿名性や臨場感の無さは、自身が抱えているストレスをかんたんに攻撃衝動へとスライドさせてしまいます。

情報化社会の本質は「リンク・フラット・シェア」。誰とでも繋がれる社会ができてきたからこそ、最後の「シェア(分かち合う)」が「アタック(攻撃)」に変わることのないように、気をつけなければいけません。

誹謗中傷を受けたときはどうしたらいい?

とはいえ、SNS での誹謗中傷は、現代では誰にでも起こり得るトラブルのひとつ。こちらがどれだけ気を付けていても、思わぬところから火の粉が飛んできたりすることもあります。

そういうときは、どうすればいいのか?

宗教から学べる解決策は、まずは「反応しない」こと、そして「自分はしない」という挑戦を始めることだと思います。

反応しない(ブッダの教え)

これは仏教の祖、ブッダの純粋な教えである「原始仏教」をヒントにして書かれた『反応しない練習 ~あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」~』という本。

Kindle Unlimted 会員なら無料で読めるのでおすすめですよ。

この本に書かれていた、ブッダが誹謗中傷を浴びせられたときのやりとりが秀逸だなと感じたので紹介しますね。

なお当時ブッダがいたインドはカースト社会で、階級が絶対的なものでした。しかし、ブッダよりも上の地位、最高位にいるような人々(バラモン)でさえブッダに弟子入りするという出来事が発生。

これに激怒した別のバラモンが、弟子や訪問者が大勢いる目の前で、ブッダに誹謗中傷を浴びせかけたのですが、ブッダは静かにこう返したのです。

もし罵る者に罵りを、怒る者に怒りを、言い争う者に言い争いを返したらならば、その人は相手からの食事を受け取り、同じものを食べたことになる。

わたしはあなたが差し出すものを受け取らない。あなたの言葉は、あなただけのものになる。そのまま持って帰るがよい。

『サンカッタ・ニカーヤ』

たしかに誹謗中傷の言葉も、相手から「差し出されているもの」だと認識できれば、当然「受け取らない」という選択肢が出てきますよね。

そしてそれを受け取らなければ、言葉は吐き出した人のものになる。その空間には、誹謗中傷の言葉を吐く人がただ一人存在している、という事実だけが残るということです。

自分はしない(天理教の教え)

ブッダの「受け取らない」という選択肢を選べるようになれば、世界の見えかたも少し変わるでしょう。それは人としての成長に違いありません。

だとしたら、もう次のステージに進めるはず。優しい思いやりの心をもって「自分は人に対してそういうことをしない」という挑戦を始めるというステージです。

天理教の教祖であるおやさまは、人間の心の持ち方について、このように教えられています。

「やさしい心になりなされや。人を救けなされや。癖、性分を取りなされや。」


『稿本天理教教祖伝逸話篇』一二三 人がめどか

どんなときでも自分の価値観で人を判断せず、優しい思いやりの心でいられるようにしましょうというこの教え。僕の好きなお言葉でもあります。

相手からの誹謗中傷を受け取ってしまったら、やはり心は傷ついてしまいます。

しかし、だからといって報復しようとすれば、たちまち「負の連鎖」が連綿と繋がっていくことになります。

ですから、ここは「やられたらやり返す」のではなく、「受け取らない」「自分はしない」の2つのアクションによって負の連鎖を断ち切ること。

これは我慢でもなく、無関心になるわけでもありません。負の連鎖を終わらせるための「挑戦」です。

そういう挑戦を始める人が、どんどん増えていけばいいなと思っています。

皆丸い心で

天理教の教祖であるおやさまは、この世界の「本来の姿」について、このような言葉を残されています。

「 世界は、この葡萄のようになあ、皆、丸い心で、つながり合うて行くのやで。 」


『稿本天理教教祖伝逸話篇』一三五 皆丸い心で

ブドウの実は、栗のように外敵から身を守るトゲがありません。そのため、ひとつの房にたくさんの実をつけることができます。

この世界も、いつかはブドウのように丸くて柔らかい心で、人々が寄り添って形成していけるはずなんです、という意味のお言葉だと思います。

僕らも本来なら、外敵から身を守る「トゲ」のような言葉や心は必要ないはずなんですよね。

そのためにも、誹謗中傷は「受け取らない」「自分はしない」のアクションで、負の連鎖を終わらせていきましょう。

いつかブドウのような、丸い心でつながりあえる社会やコミュニティを形成できるようになるために。

それではまた、次の記事でお会いしましょう。信ちゃん(@shin0329)でした!

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