【ガチ考察】天理教の「陽気ぐらし」を、原典から紐解いてみた!

【#今日も勉強は続く】天理教の「陽気ぐらし」について、原典を手がかりに紐解いてみた

信仰のある暮らし

こんにちは!『今日も信仰は続く』をご覧いただきありがとうございます。桑原信司です。

気軽に信ちゃん(@shin0329)って覚えてもらえたら嬉しいな。

今回は新たな挑戦です。ずっと「わかりにくくなるだろうから、あんまりしないでおこう」と思って避けていた「天理教の原典(聖書)」からの引用を、むしろ積極的にしていくコンテンツ。

#今日も勉強は続くを始めたいと思います。

普段は、天理教を信仰している僕の暮らしを綴って、それを公開していました。

おかげさまで、少しづつではありますが、天理教を知らない人にも「信仰のある暮らし」を提案させていただく機会があります。

ここで、僕が気を付けていたのが「天理教独自の用語をなるべく使わない」こと。

しかし、このカテゴリーでは、僕の思考の「根拠」を明確にするために、教理を原文のまま多数引用します。

よって「天理教独自の用語」もたくさん登場するでしょう。人によっては「わかりにくい記事」になると思います。

天理教の教えについて、わかりやすく書かれた記事が読みたい方は、こちらからどうぞ!

当カテゴリーのペルソナについて

これまでの記事がすべて「天理教の人がどんな教えを信じているか気になっている人」に向けて書いたものであったのに対し、

#今日も勉強は続くでは、すでに天理教の教えを知っている人や、僕が発信している教理にどんな根拠があるのかを詳しく知りたい人に向けた内容になります。

それでは、始めます!

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「陽気ぐらし」について

さて、第一回となる#今日も勉強は続く のテーマは「陽気ぐらし」についてです。

これは以前にも記事にしましたね。まだ読んでいない方は、よろしければこちらからどうぞ。

上の記事を端的にまとめると、天理教の信仰が目指しているのは、「仲良く助けあう世界」だということです。

そして今回のこの記事では、これをどのような根拠で書いたのかを、原典を手がかりに紐解いていきたいと思います。

「陽気ぐらし」の語源

天理教といえば陽気ぐらし!陽気ぐらしの天理教!

天理教内でも、このような認識の方が多いと思いますが、実は「陽気ぐらし」という言葉、三原典(『おふでさき』『みかぐらうた』『おさしづ』)では、『おさしづ』に数件ヒットするくらいで、あまり言及されていない言葉なんです。

以下に、該当の『おさしづ』を引用します。

教長御身上の願い

さあ/\尋ねる処/\、さあ/\どうもこれ一つ思やん分かろうまい/\。身上に一時これどうなろう知らんと言うた処、幾重々々の理は諭したる。皆それ/\談示の理を治めて事情運べば、成程と言えば身上は楽々なれど、一つ/\の理を思い、誰と/\の思やんはあろうまい。二人事情の思やん、我も思い俺も思い、先々は何も言うやない、思うやない。これから先は陽気ぐらし陽気遊びという、楽々の心を一時定めにゃならん。この理を諭し置こう。

『おさしづ』明治28年5月28日

他にあと3件ありますが、ここでは文字数の都合上控えさせて頂きますね。

が、ちょっとびっくりですよね。小さいころから「陽気ぐらしをすることが大切なんだよ」と教えられて育ってきたのに、おやさま(天理教の教祖)直筆・直伝の『三原典』には全然出てこないとは…!

しかし、上記の『おさしづ』でも「陽気遊び」という言葉がすぐ後に続いたように、他にも三原典には「陽気」「陽気遊山」「陽気づくめ」「陽気づとめ」などが頻繁に出てきます。

そしてこれらは、本部の神殿講話や、様々な書物で「陽気ぐらし」について語られるときに引用されていることから、「陽気ぐらし」とは上記のお言葉を実践する姿、つまりライフスタイルそのものを指しているのだと思います。

だとすれば、「陽気ぐらし」を形成している 「陽気」「陽気遊び」「陽気遊山」「陽気づくめ」「陽気づとめ」 の要素を紐解いていくことは、「陽気ぐらし」を送るうえで知っておく必要があるでしょう。

それでは、ひとつずつ考察していきます!

三原典にみる「陽気」

いつもたすけがせくからに はやくやうきになりてこい

むらかたはやくにたすけたい なれどこゝろがわからいで

なにかよろずのたすけあい むねのうちよりしあんせよ

『みかぐらうた』四下り目

『みかぐらうた』に関わらず、三原典の主語は基本的に親神様(天理教の神様)です。

なので、この歌の意味は「(親神は)いつも救済を急いているから、(人間は)早く陽気に成りてこい」となるでしょう。

しかし、人間は陽気になるための心遣いがわかっていない。だから、よろず(全て)のたすけあいを胸の内より思案せよ、と説かれているのだと思います。

また、『おさしづ』では

陽気というは、皆んな勇ましてこそ、真の陽気という。めん/\楽しんで、後々の者苦しますようでは、ほんとの陽気とは言えん。めんめん勝手の陽気は、生涯通れると思たら違うで。

『おさしづ』明治30年12月11日

「陽気」の本質は、みんなを勇ませることであり、自分たちだけが陽気な気分になることとは違うことを指摘されています。

これらを眺めるとき、「陽気」には「何事もたすけあう」ことで「みんなが勇む」姿が重要な要素になってくると思います。

三原典にみる「陽気遊山」「陽気遊び」

次は「陽気遊山」「陽気遊び」について。なんだか楽しげな字面ですね。

月日にわにんけんはじめかけたのわ
よふきゆさんがみたいゆへから

『おふでさき』十四 25

月日(親神様の別の呼び名)が人間を創造した理由は、人間が「陽気遊山」をする姿を見たいからとお教えいただきます。

「遊山」という言葉の意味は、『広辞苑』によれば

①山野へ遊びに出ること
②(仏教用語)禅家で、すでに修行を終えた後、諸方へ遊歴すること
③遊びに出かけること。気晴らしに外出すること。行楽

『広辞苑 第六版』

とあります。これらに先ほどの「陽気」の意味が加わるのだと思いますが、『おさしづ』にて

さあ/\陽気遊びというは、よう聞き分け。陽気遊びと言えば、今日もあちらへ遊び行く、何を見に行く。陽気遊びとは、目に見えたる事とはころっと格段に違うで。

『おさしづ』明23.6.20

目に見える遊山、つまり文字通り山へ遊びに行くこととは格段に違うと説かれている点に注目すべきでしょう。

端的に言えば、「陽気遊山」とはたすけあいながら(陽気)山へ遊びに行く(遊山)、つまりピクニックではないということです。

むしろ、これは「陽気」主体性無邪気さを求められていると考えるべきかと。つまり「誰かのの指示で仕方なく」とか「今この人を助けておいたらメリットがあるから」でもなく、仲良くたすけあって暮らす様を見たいと仰っているのだと思います。

『天理教教典』でも、このように書かれています。

親神の守護を身に受けつつ、人々相扶け合うて、明るく浄く、勇んで生を楽しむ境涯に生きる。(略)子供の成人を待ちかねられる親神は、この陽気ぐらしを見て、共に喜び共に勇まれる。

『天理教教典』第10章「陽気ぐらし」

誰かとたすけあいながら、明るく勇んで人生を楽しもうとする姿。親神様も、子供である人間がそんな暮らしを営むことが喜びになり、勇みにもなる、と。

これも「陽気ぐらし」には欠かせないポイントだと感じます。

三原典に見る「陽気づくめ」

次は「陽気づくめ」についてです。ちなみに「づくめ」は「尽くめ」、接尾語で名詞に添えてその物ごとだけである意味を示す言葉です。

月日にハとのよな事も一れつに
みなにをしへてよふきづくめ

『おふでさき』第七号 108

天理教には、他の宗教に見られる選民思想はありません。天理教の教えは世界一れつの人間に教えるためにあり、これを実行していけば「陽気づくめ」になると教えられます。また、

月日にわにんけんはじめかけたのわ
よふきゆさんがみたいゆへから

これからハ心しいかりいれかへて
よふきづくめの心なるよふ

『おふでさき』第十四号 24~25

このお歌から、「陽気遊山」が見たいがために創造された人間に、親神様は心を「陽気づくめ」に入れ替えていくことを望まれていることがわかります。

では、どのような心に入れ替えればいいのというと、『みかぐらうた』にて

いつまでしん/゛\したとても
やうきづくめであるほどに

むごいこゝろをうちわすれ
やさしきこゝろになりてこい

『みかぐらうた』五下り目

むごい心、つまり人を押さえつけるような心を忘れて、優しい心へ入れ替えていくことが「陽気づくめ」を成立させる要点であることが歌われています。

三原典にみる「陽気づとめ」

最後に「陽気づとめ」について。「つとめ」についても述べたいところではありますが、ここだと長くなるので割愛させていただきます。

しんぢつに心いさんでしやんして
神にもたれてよふきづとめ

『おふでさき』第四号 49

どのよふにむつかしくよふみへたとて
よふきつとめてみなたすけるで

『おふでさき』第十二号 61

「陽気遊山」「陽気づくめ」が、「陽気ぐらし」のゴールに近いものであるとするならば、「陽気づとめ」はそこへ向かうための儀礼だと思います。

真実に心勇んで思案して、神にもたれて「陽気づとめ」をするとき、どんなに難しいように思える事象も全てたすける、と仰っています。

つとめてもほかの事とわをもうなよ
たすけたいのが一ちよばかりで

『おふでさき』第16号 65

つとめに込められた意味合いは、親神様の「人間をたすけたいばかり」という親心に尽きます。

だからこそ、「陽気づとめ」は人間から親神様に捧げる宗教的儀礼ではなく、むしろその逆で、親神様から人間への救済のアプローチと言えるでしょう。

陽気ぐらし」は人間の信仰的努力によって実現させていくものではなく、神と人の共同作業によって完成するものです。

この点は、宗教的救済観としては比較的珍しく、天理教の特徴でもある「親心」が如実に現れています。

「陽気ぐらし」まとめ

さて、ここまでいくつもの「親神様のお言葉」を引用してきました。おそらくわからない言葉もたくさん登場してきたかとは思いますが、またお問い合わせメールフォームよりご質問いただければ幸いです。

一応ここでまとめておくと、「陽気ぐらし」「陽気」 「陽気遊山」「陽気遊び」 「陽気づくめ」「陽気づとめ」などの教えを実行していく姿だと思います。

それは、いつも優しい心で周囲の人を勇ませ、仲良くたすけあって暮らす姿。そのひとりひとりには主体性、つまり自ら進んで楽しもうとする心があります。

そして、たすけあうのは人と人だけに限りません。人間の親である親神様も「人間をたすけたい」一条で「陽気づとめ」を教えられました。

この共同作業を経て、神人和楽(しんじんわらく)、つまり神と人とが和らぎ楽しむ「陽気ぐらし」世界は実現していくと、僕は考えています。

夢物語で、終わらせたくない

長くなりましたが、最後にもう少しお話を。

僕は天理教の信者です。なので、これを夢物語で終わらせたくないと思っています。

そのためにも、まずは自分から優しく思いやりのある心を大切にします。

また、周囲の人と仲良くたすけあって、いつも楽しむ心を忘れないようにしていきたいと思います。

ときには心折れそうなときもあるけど、大丈夫です。信仰を通して出会えた、僕よりも優しい人たちが勇んでたすけてくださるので。

有難い限りです。これからも、よろしくお願いします!

それではっ!

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