星野源に学ぶ「僕らは身体のパイロットである」という感覚|天理教の「かしもの・かりもの」について

星野源に学ぶ「僕らは身体のパイロットである」という感覚|天理教の「かしもの・かりもの」について

今日も信仰は続く

今日もしっかりと、動いてくれよ?

こんにちは!『今日も信仰は続く』を見ていただいてありがとうございます。桑原信司(@shin0329)です。

信ちゃん
信ちゃん

気軽に信ちゃん、って覚えてくれたら嬉しいな~!

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突然ですが、小さい頃に憧れていた職業ってなんですか?

僕は昔から「パイロット」に強い憧れがありました。自分よりも大きなマシンに搭乗して、果てしない大空を自由に飛べたらどんなに気持ちいいか、想像しただけでワクワクしますよね。

ですが、最近は信仰を通じて「考えようによっては僕ら人間はみんなパイロットじゃないかな?」と感じていて。

そんなふうに思えたきっかけは、天理教の「かしもの・かりもの」の教えと、星野源さんのエッセイ『いのちの車窓から』でした。どちらも素晴らしいことが書いてあるので、ご紹介しますね。

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「かしもの・かりもの」の教えとは?

僕が信仰している天理教の教えを、誰かに説明しようとするとき、まずベースとなる概念に「かしもの・かりもの」という教えがあります。

これは天理教の教えのすべてを貫く重要な考え方なので、最も大切な理だと教わります。

結論から言えば、「人間の身体は、神様からお借りしているもの」だという教理。つまり、「自分」と「自我」に明確な境界線を引くということです。

もう少しわかりやすく解説しますね。

身体は「神様からお借りしているもの」

たとえば「あなたの身体を管理しているのは誰ですか?」と質問をされたとき、きっとだれもが「私です」と答えるでしょう。

筋力をつけるためにトレーニングをしたり、ダイエットをするために食事制限をしたりするのは、間違いなく自分の「意思」ですからね。

しかし、この答えには大きな矛盾点があります。

それは、心臓を動かしたり、体温を一定に保ったり、食べたものを消化・吸収したりなどの生命活動は、はたして自分の意志によるものだろうか?という矛盾。

なにが言いたいかというと、僕たちの身体は「思うがままにコントロールできる領域」と「自分の意志ではコントロールできない領域」のふたつが同時に存在している事実に目を向けてほしいということ。

「自我」と「自分」に境界線を引こう

さて、ここでパイロット(操縦士)のお話に戻しましょう。

彼らも、機体を思うがままにコントロールすることができますよね。アクセルを踏んで加速したり、ハンドルを回転させて方向転換したり。

ところが一方で、整備や修理、給油や機内清掃などはそれぞれのエンジニアに任せてしまうことがほとんどです。

特に機体が大きく、複雑になればなるほど、パイロットは「操縦」に集中することが求められます。

この関係って、人間の心と身体の関係に似ているんですよね。

パイロットは機体を思うがままに操縦し、エンジニアは機体をしっかり整備することによってサポートする。

僕らも身体を思うがままに操縦する一方で、心臓の鼓動も、体温調節も、エネルギー源の消化吸収も、自分ではない「大いなる何者か」によってサポートされている。

それは、心臓を動かしたり、体温を一定に保ったり、食べたものを消化・吸収したりなどの生命維持活動は、はたして自分の意志なのだろうか?という矛盾。

この心と身体の関係性の矛盾に対して「人間の身体は神様から借りているもの」だと説いたのが、天理教の「かしもの・かりもの」の教え。

つまり、「アンコントローラブルな生命の働き」の領域を司っている存在こそ「神様」であり、僕たち人間はそのサポートを受けている機体を「自我」、つまり心によって操縦しているんだという認識が重要だということです。

これは「わたし」と「わたしの身体」にしっかりと境界線を引きましょうという教えにもなるわけですね。

星野源『いのちの車窓から』

星野源、というアーティストがいますよね。彼は本当に天才で、音楽活動だけでなく、俳優や執筆活動もこなすマルチタレント。僕も大好きです。

ただ、2012年にくも膜下出血になり、開頭手術を受けた後も闘病生活を送っておられたことは、実はあまり知られていません。

当時の様子については、後に出版されたエッセイ『いのちの車窓から』にて、このように振り返っておられます。少し引用しますね。

体という乗り物を星野源という精神が操縦していることの奇跡の実感が、手術後はさらに明らかに、リアリティを持って湧いてくる。

窓の内側に意識が飛ぶ。俺のロボよ、俺の手足よ、どうか上手く動いておくれ。窓の外には勝手に喋り、勝手に動く役者の自分がいる。喋る自分を放っておいて、周りを見渡す。不思議だな、この前まで病院の天井を見ていたのに、今は1300人の客の前で大声で喋っている。

人生は旅だというが、確かにそんな気もする。自分の体を機関車に喩えるなら、この車窓は存外面白い。

星野源『いのちの車窓から』より

俺のロボよ、俺の手足よ、どうか上手く動いておくれ――大病を乗り越えたからこそ見えてきた、「星野源」と「星野源の身体」を分かつ境界線。

自身の身体を機関車にたとえて、車窓の内側から世界を見つめ直す。すると、生きていることがいかに奇跡の連続なのかがよくわかる…という、素敵な感性で綴られたこのエピソードに僕はとても共感するわけです。

うまく動いてくれて、ありがとう

僕も25歳のときに交通事故にあって、生きていることがいかに奇跡の連続なのかを痛感しました。

どれだけ傷ついても、こちらが安静にしているだけで治っていく身体に「神様の領域」を感じたりして。僕の身体ってすごいな、と。

あぁ、神様は、なんて行き届いた整備をしてくださっているんだろう、と。

だから、そんな奇跡でできているこの身体の「パイロット」として、神様の期待に応えられるようなフライトをしていきたいんですよね。

ひとりでも多くの人の役に立ち、勇気を与え、笑顔にしてあげられるような。明日も元気に出発できたらいいな。

それではまた、次の記事でお会いしましょう。信ちゃん(@shin0329)でした!

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ちなみに、僕の人生をかけたフライトの最終目的地はこちらになります。

人と人とが仲良くたすけあう社会、一緒に目指しませんか?

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