より良い「居場所」をつくるために。東畑開人『居るのはつらいよ』からケアの大切さを学ぶ | 『今日も信仰は続く』

より良い「居場所」をつくるために。東畑開人『居るのはつらいよ』からケアの大切さを学ぶ

暮らしを彩るもの

居心地の良いコミュニティの“終わりの始まり”とは。

こんにちは!『今日も信仰は続く』をご覧いただきありがとうございます。桑原信司です。

気軽に信ちゃん(@shin0329)って覚えてもらえたら嬉しいな。

今日は、精神科デイケア施設で働いた経験をユーモアたっぷりに交えながら「居場所の本質」について論じられていくエッセイ風の学術書、東畑開人『居るのはつらいよ ―ケアとセラピーについての覚書』について解説します!

ちなみに僕がこの本を購入したきっかけは、ひじり僧の松本紹圭さん(@shoukeim)が運営しているオンラインサロン「方丈庵」に投稿されたこちらの記事で紹介されていたから。

やっぱり本を買うときは、Amazonのレビューの数や高さよりも“信頼できる人がおすすめしているもの”を選ぶのが間違いないですね。これもホームラン級のアタリ本でした。

松本さんも記事のなかで、

お寺という場を預かる僧侶、あるいは、様々なコミュニティを預かるあらゆる宗教者にとっても、ものすごく関係があるテーマだし、参考になるオススメの本です。

宗教コミュニティとアサイラムへの頽廃 より引用

と言われていますが、とにかく人と関わるお仕事をされている方にはぜひ!読んでほしい一冊です。

コミュニティがもつ2つの側面と、その「居心地」を脅かすものとは?

できるだけポイントを絞って、わかりやすく解説していきます!今回の記事が、日常に寄り添ってくれている「ケア」へと想いを馳せるきっかけになれば嬉しいな。

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『居るのはつらいよ ―ケアとセラピーについての覚書』

さて、こちらが今回ご紹介する『居るのはつらいよ ― ケアとセラピーについての覚書』です。

本の著者は、先ほども紹介しましたが臨床心理士の東畑開人(とうはた かいと)先生。

京都大学大学院の博士課程を修了したあと、普通なら大学教員や研究員というアカデミア関係の職に進むところを、あえて臨床の現場に挑んだという異色の経歴の持ち主です。

当時の様子がプロローグにて振り返られているので、ちょっと紹介しましょう。

だけど、僕は違った。「病院で働く」と心に決めていた。僕は「臨床心理学」という心の援助に関わる学問を学んだ。そういう学問を修めたハカセが、現場で実践することもなく、若くして大学で教えるようなキャリアにつくなんて、堕落の極みであると燃えていたのだ。真の臨床心理士ならば、研究室ではなく、面接室で仕事をするべきだ、わめき散らしていた。

『居るのはつらいよ ― ケアとセラピーについての覚書』 より引用

ゲド戦記みたいなものだ。見習い魔法使いが旅に出て、さまざまな経験を積む。そして大魔法使いになって故郷に凱旋する。おれも精神医療の現場で自分を鍛える。そして、大セラピストになって凱旋する。そういう英雄的ファンタジーに取り憑かれていたのだ。

『居るのはつらいよ ― ケアとセラピーについての覚書』 より引用

現場で生きた経験を積んでこそ、真のセラピストになれるという考えがあったというわけですね。おそらく河合隼雄先生のような臨床心理士を目指しておられたのだと思います。

そんな「大セラピスト」を夢見ていた若き日の東畑先生。しかし就職活動で「カウンセリング業務が中心の求人はほとんどない」という心理士の厳しい雇用情勢の現実に悩まされます。

それでも「なんとか現場でカウンセリングの経験を積みたい!」と必死の思いで手繰り寄せたのが、沖縄にあるデイケアセンター。

この本の舞台となった場所で、当時の「沖縄の雰囲気」は、本書のなかでも色濃く描かれています。

ここはカウンセリング業務の現場でありながら、同時に「居る」を保証するケアの現場でした。当初はケアとセラピーの違いに戸惑う東畑先生でしたが、次第にケアの現場が抱える大きな難題に直面してしまいます。

それこそが本書で解き明かされている「居る」を脅かす怪物の正体

そう。タイトルにもなっている「居るのはつらいよ」は、この怪物に脅かされ、傷つけられた東畑先生の心の叫びでもあったのです。

はたして、東畑先生やデイケアのメンバーになにがあったのか?

コミュニティの「居心地」を脅かす怪物とは、いったいなにか?

その答えにたどり着くためには、まず本書の副題でもある「ケア」と「セラピー」の違いについて整理しておかなければなりません。ポイントを絞ってサクッと解説します!

「ケア」と「セラピー」の違いとは?

僕自身、正直この本を読むまでケアとセラピーの違いなんて考えたこともありませんでしたが、東畑先生はとてもわかりやすく解説してくれます。

詳しい内容についてはぜひ本を読んでいただきたいところですが、僕なりにまとめるとこんなかんじ。

「ケア」と「セラピー」の違い
  • ケアは傷つけない。相手の欲求を満たし、支え、依存を引き受ける。そうすることで安全を確保し、ありのまま生きることを可能にする。日常的に繰り返す。
  • セラピーは傷つきに向き合う。相手の価値観を変更していくために非日常の空間を用意し、介入することで自立を促す。相手は葛藤を経て成長する。

両者は似ているようで、その性質はほぼ正反対。面白いですよね。

ここからは、その違いの中でもとくに重要なポイントについて解説します。それは「心の傷」に対するアプローチの違いについてです。

それではいきましょう! 

ケアは傷つけない、セラピーは痛みと向き合わせる

「カウンセラー」という言葉には、優しいイメージがあるかもしれないけれども、僕らは安定や平和だけを大事にしているわけではない。

(略)

ここにはセラピーの発想がある。ケアの基本は痛みを取り除いたり、やわらげたりすることだと思うのだけど、セラピーは傷つきや困難に向き合うことが価値を持つ。痛みと向き合う。しっかり悩み、しっかり落ち込む。そういう一見ネガティブに見える体験が、人の心の成長や成熟につながるからだ。

つまるところ、セラピーが目指しているのは成長とか変化であり、「このままではいけない」とか「変わりたい」というクライエント(セラピーを受ける人)の意思をサポートするための行為を指しています。

心の専門家であるカウンセラーの技術によって、心の深層にある“傷”と向き合い、受け入れ方を変えていくことが「セラピー」の本質なわけです。

なので、カウンセラーには相当のテクニックが必要。付け焼刃な知識では、ただ相手を傷つけるだけになってしまうからです。

だから、容易にセラピーをやってはいけない。ケアが必要な人には、まずケアを提供しなければいけません。そうでないと、セラピーを受けて「傷ついただけだった」となってしまいます。まずはケア。それからセラピーです。

これに対し、ケアはそもそも「傷つけない」ことを理想としています。

わかりやすい例でいうと、赤ちゃんに対する子育てなんかが「ケア」です。

ミルクをあげて、ゲップをさせて、オムツを変えて、寝かしつけて…。赤ちゃんの日常は、母親による懇親的な「ケア」によって支えられています。

「その汚れたオムツ、自分で変えられるようになれたら楽ですよ(セラピー)」なんてお母さんは言いません(笑)

「あなたは、あなたのままでいいんだよ」そんな理念に基づく、日常的なサポート。これがケアの本質であり、東畑先生が精神科デイケアセンターで目の当たりにした、患者さんたちの「ただ、いる、だけ」を保証する人間関係でした。

「居る」を脅かす怪物の正体とは?

しかし東畑先生は、次第にケアを脅かす「怪物」に蝕まれていきます。そして、最終的には心身を病み、デイケアを退職することになりました。

その恐ろしい怪物の正体とは、いったいなんなのか?

答えは「ニヒリズム(虚無主義)」です。これは哲学者ニーチェが説いた言葉で、「物事の意義や目的といったものは存在しない、この世の全ては無価値だ」とする考え方や態度のこと。

そう、ケアの現場はいつだって「こんなことをして意味はあるのか?」という合理性を突き付けられ、その価値を脅かされているのです。

つまり、専門性を駆使しクライエントの成長を促すセラピーと違って、誰にでもできる日常的な支援によって相手の生活を守るケアは、「それは本当に必要なのか?」という問いに対して明快な返答がしづらいのです。

本書では、あの「津久井やまゆり園事件」の犯人である元職員も、極端なケースではあるがニヒリズムに内側から食い破られた姿だ、と指摘されています。

「津久井やまゆり園事件」の詳細については、Wikiのリンクを貼っておきます。

「アジール」が「アサイラム」になるとき

ケアはいつでも、ニヒリズムに脅かされている。

しかしだからといって、ニヒリズムを払拭するために「ただ、いる、だけ」を正当化しようとすると、今度は別の問題が発生してしまいます。

それは「これまで居場所=アジールだったものが、監獄=アサイラムへと変質してしまう」という問題で、東畑先生が危険視しているのはむしろこっち。

つまりどういうことかというと、「あなたはなぜここに居るの?」という問いには、本来なら「居心地がいいから」で十分なはずなんです。しかし、ニヒリズムを払拭するために「居る」ことを正当化しようとすると、「私は○○をするためにここに居るんです」などと本来なくてもいいはずの目的や意味を強制的に見つけなければいけなくなるのです。

そうなってしまうと、もうありのままを受け入れる(ケア)ことは難しくなる。

「居る」ためには、ある目的をクリアし続けなければならない。このとき、居場所(アジール)は監獄=アサイラム へと変化してしまうのです。

『居るのはつらいよ』まとめ

ケアの現場では、いつもセラピーが重要視され、ケアは軽視されてしまうといいます。

けど、たとえケアの現場でなくても、介護や育児、家事全般などの「ケア的行為」の重要性は軽視されてしまいがちです。

しかし、それではケアによって支えられていた、ありのままを受け入れてくれる居場所=アジール は、ニヒリズムに食い破られてしまうか、なんらかの目的をもって集められた監獄=アサイラム に頽廃してしまう。

それだと…「居るのはつらいよ」…。

だから、本書ではケアの重要性を強く主張します。アジールがアサイラムへと頽廃していくのも、ニヒリズムに襲われるのも、すべては「ケアを軽んじている」から。

僕はありふれた心理士で、「ただ、いる、だけ」を公共のために擁護する力がない。官僚に説明できる力がない。結局のところ、僕は無力な臨床家なのだ。

だけど、僕はその価値を知っている。「ただ、いる、だけ」の価値とそれを支えるケアの価値を知っている。僕は実際にそこにいたからだ。その風景を目撃し、その風景をたしかに生きたからだ。

だから、この本を書いている。そのケアの風景を描いている。

それは語られ続けるべきなのだ。ケアする人がケアすることを続けるために、ニヒリズムに抗して「ただ、いる、だけ」を守るために、それは語られ続けなければいけない。

確かにケアは難しい。僕もケアに関わるお仕事をしていますが、やりがいこそあるけれど賃金は低いし、社会的地位の低さも否めません…

…ってほら、すぐにニヒリズムがやってくるでしょう。これが本当に、危険なんですよ。僕らは、言葉にしづらい「ケア」の良さを、そこにある温度みたいなものを守っていかなくちゃならない。

本書で説かれていたように、「ありのままを受け入れてくれる」ケアに満ちた居場所=アジール は、すべての人に必要とされているからです。

それでも、僕らは居場所を必要とする。「いる」が支えられないと、生きていけないからだ。だから、アジールはいつも新しく生まれてくる。たとえそれがすぐにアサイラムになってしまうとしても、それは必ず生まれてくる。

あなたの所属するコミュニティは、ケアに満ちた居場所=アジール にですか? それとも監獄=アサイラム ですか?

できれば、僕のコミュニティは相手の「ありのまま」を受け入れるアジールのままでいたいなぁ。「居るのが楽しい!」と思えるような。

「居場所」について深く考えさせられる良著でした。コミュニティに所属している人、サロンを運営している人には、本当におすすめの一冊です!

それではまた次の記事でお会いしましょう。信ちゃん(@shin0329)でした。

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