より良い「居場所」をつくるために。東畑開人『居るのはつらいよ』からケアの大切さを学ぶ

より良い「居場所」をつくるために。東畑開人『居るのはつらいよ』からケアの大切さを学ぶ

読んでよかった本

居心地の良いコミュニティの“終わりの始まり”とは。

こんにちは!『今日も信仰は続く』を見ていただいてありがとうございます。桑原信司(@shin0329)です。

信ちゃん
信ちゃん

気軽に信ちゃん、って覚えてくれたら嬉しいな~!

※   ※   ※   ※   ※

 

今日は、精神科デイケア施設で働いた経験をユーモアたっぷりに交えながら「居場所の本質」について論じられていくエッセイ風の学術書、東畑開人『居るのはつらいよ ―ケアとセラピーについての覚書』をご紹介します!

スポンサーリンク

『居るのはつらいよ ―ケアとセラピーについての覚書』

購入のきっかけは?

この本を購入したきっかけは、「未来の住職塾NEXT」で塾長を務められている松本紹圭さん(@shoukeim)が自身のオンラインサロン「方丈庵」で紹介されていたからです。

やっぱり本を買うときは、Amazonのレビューの数や高さよりも“信頼できる人がおすすめしているもの”を選ぶのが間違いないですね。これもホームラン級のアタリ本でした。

お寺という場を預かる僧侶、あるいは、様々なコミュニティを預かるあらゆる宗教者にとっても、ものすごく関係があるテーマだし、参考になるオススメの本です。

宗教コミュニティとアサイラムへの頽廃 より引用

宗教者だけでなく、介護や医療、教職など「人(コミュニティ)と関わる仕事」をされている方にはぜひ読んでほしい一冊です。

著者・東畑開人 について

本の著者は、臨床心理士の 東畑開人 とうはた かいと先生。京都大学大学院の博士課程を修了されたあと(多くの人は大学教員や研究員というアカデミア関係の職に進むのですが)、あえて「臨床の現場」に挑んだチャレンジングな先生です。

当時の様子がプロローグにて振り返られているので、ちょっと紹介しますね。

だけど、僕は違った。「病院で働く」と心に決めていた。僕は「臨床心理学」という心の援助に関わる学問を学んだ。そういう学問を修めたハカセが、現場で実践することもなく、若くして大学で教えるようなキャリアにつくなんて、堕落の極みであると燃えていたのだ。真の臨床心理士ならば、研究室ではなく、面接室で仕事をするべきだ、わめき散らしていた。

『居るのはつらいよ ― ケアとセラピーについての覚書』 より引用

ゲド戦記みたいなものだ。見習い魔法使いが旅に出て、さまざまな経験を積む。そして大魔法使いになって故郷に凱旋する。おれも精神医療の現場で自分を鍛える。そして、大セラピストになって凱旋する。そういう英雄的ファンタジーに取り憑かれていたのだ。

『居るのはつらいよ ― ケアとセラピーについての覚書』 より引用

現場で生きた経験を積んでこそ、真のセラピストになれるという考えがあったというわけですね。あの河合隼雄先生に大きく影響を受けた、とも述懐されていました。

デイケアセンター勤務の、リアルな日常

そんな「大セラピスト」を夢見ていた若き日の東畑先生。しかし就職活動で「カウンセリング業務が中心の求人はほとんどない」という、心理士の厳しい雇用情勢の現実に悩まされます。

それでも「なんとか現場でカウンセリングの経験を積みたい!」と必死の思いで手繰り寄せたのは、沖縄のとあるデイケアセンター。ここはカウンセリング業務の現場でありながら、同時に社会的弱者である利用者さんたちの「居る」を保証するケアの現場でもありました。

はじめは念願の「セラピーの現場」で勤務できる喜びを噛みしめていた東畑先生でしたが、次第にある「大きな矛盾」に気がついたことで心身を病み、最終的にはデイケアを退職してしまうまでになりました。

その「大きな矛盾」こそ『居るのはつらいよ ―ケアとセラピーについての覚書』で生々しいほどリアルに描かれる、「ケアとセラピーを両立させることの難しさ」。

というわけで、まずは本書の副題になっている「ケア」と「セラピー」の違いについて整理しておきましょうか。

「ケア」と「セラピー」の違いとは?

僕自身、正直この本を読むまでケアとセラピーの違いなんて考えたこともありませんでしたが、東畑先生はとてもわかりやすく解説してくれます。

詳しい内容についてはぜひ本を読んでいただきたいところですが、とりあえず僕なりにまとめるとこんなかんじ。

「ケア」と「セラピー」の違いとは?

「ケア」は傷つけない。相手の欲求を満たし、支え、依存を引き受ける。そうすることで安全を確保し、ありのまま生きることを可能にする。日常的に繰り返されるもの。

「セラピー」は傷つきに向き合う。相手の価値観を変更していくために非日常の空間を用意し、介入することで自立を促す。相手は葛藤を経て成長する。根本的な解決を目指すもの。

両者は似ているようで、その性質はほぼ正反対。もう少し詳しく解説してみます。

セラピーは痛みと向き合わせる

「カウンセラー」という言葉には、優しいイメージがあるかもしれないけれども、僕らは安定や平和だけを大事にしているわけではない。

(略)

ここにはセラピーの発想がある。ケアの基本は痛みを取り除いたり、やわらげたりすることだと思うのだけど、セラピーは傷つきや困難に向き合うことが価値を持つ。痛みと向き合う。しっかり悩み、しっかり落ち込む。そういう一見ネガティブに見える体験が、人の心の成長や成熟につながるからだ。

東畑先生が目指していた「セラピー」は、成長や変化を求める顧客の意思をサポートするための行為のこと。それは心の専門家であるカウンセラーの卓越した技術によって、心の深層にある“傷”と向き合い、受け入れ方を変えていくことです。

ですから、セラピーを受ける側が「このままではいけない」とか「変わりたい」と思っていることがとにかく重要で、ここがおざなりになっていると、ただ相手を傷つけてそうです。

だから、容易にセラピーをやってはいけない。ケアが必要な人には、まずケアを提供しなければいけません。そうでないと、セラピーを受けて「傷ついただけだった」となってしまいます。まずはケア。それからセラピーです。

うつ病の人に「頑張れ!」と言ってはいけないのと同じ理由ですね。

ケアは傷つけない

そんなセラピーに対して「ケア」は、そもそも「傷つけない」ことを理想としています。たとえば、赤ちゃんに対する子育てなんかはそうですね。

ミルクをあげて、ゲップをさせて、オムツを変えて、寝かしつけて…。赤ちゃんの日常は、母親による懇親的な「ケア」によって支えられています。

オムツを自分で変えられるように頑張りましょう!なんて言いません(笑)

「あなたは、あなたのままでいいんだよ」そんな理念に基づく、日常的なサポート。これこそが「ケアの本質」であり、東畑先生が勤務していた精神科デイケアセンターの人間関係でした。

だけど、ケアは軽んじられる

しかし東畑先生は、利用者さんの日常的なサポートである「ケア」が、しばしばニヒリズム(虚無主義)、つまり「こんなことをして意味はあるのか?」という合理性によって、価値が蝕まれていくのを感じたと言います。

日常的な支援によってしか生きることができない利用者の生活を守ろうとする行為は、「それは本当に必要なのか?」という問いに対して明快な返答がしづらいのです。

本書では、あの「津久井やまゆり園事件」の犯人である元職員も、極端なケースではあるがニヒリズムに内側から食い破られた姿だ、と指摘されています。

「津久井やまゆり園事件」とは?

2016年7月26日、神奈川県立障害者施設「津久井やまゆり園」で職員を務めていた植松聖(事件当時26歳)が、刃物で入所者19人を殺害、職員2人を含む26人に重軽傷を負わせた事件。植松被告の入所者に対する不当な差別意識(重度の障がい者は安楽死させた方がいい等)が大きな話題となった。

ケアの正当化が危険な理由

ケアを必要としている人たちはたくさんいるのに、ケア自体には客観的な合理性がありません。

しかしだからといって、ケアに合理性を持たせようとすると、そこには本来必要ないはずの「目的」や「意味」を強制的に見つけなければいけなくなります。

それは利用者さんに「こうあるべき」を押し付けることでもあり、一度そうなってしまうと、もう利用者さんの「ありのまま」を受け入れることは難しくなります。

このとき、ケアが行われていたはずの心地よい居場所(アジール)は、ケアを受けるために生き方を縛られる監獄(アサイラム)へと変質してしまう。だから「居るのはつらいよ」となるわけです。

だからこそ、ケアに光を…

デイケアセンターの現場では、いつでも「セラピー」が重要視され、「ケア」は軽視されてしまいがち。だけど、それは僕たちの日常も同じです。介護や育児、家事などの「ケア」は、いつの時代も軽視されてしまいがちじゃないですか。誰もそれなしでは生きていけないはずなのに。

だからこそ、本書では「ケアの重要性」を強く主張します。

僕はありふれた心理士で、「ただ、いる、だけ」を公共のために擁護する力がない。官僚に説明できる力がない。結局のところ、僕は無力な臨床家なのだ。

だけど、僕はその価値を知っている。「ただ、いる、だけ」の価値とそれを支えるケアの価値を知っている。僕は実際にそこにいたからだ。その風景を目撃し、その風景をたしかに生きたからだ。

だから、この本を書いている。そのケアの風景を描いている。

それは語られ続けるべきなのだ。ケアする人がケアすることを続けるために、ニヒリズムに抗して「ただ、いる、だけ」を守るために、それは語られ続けなければいけない。

経済的合理性はないし、専門性も要らない。誰にでもできるからこそ、つい軽視されがちな「ケア」に、そして「ケア」に関わる仕事をしている人に、もっと光を…。

東畑先生が本書でいちばん伝えたかったのは、この「ケア」の大切さだったと思います。

あとがき

というわけで、僕が最近読んだ『居るのはつらいよ ―ケアとセラピーについての覚書』に書かれていたことを解説してみました!

僕がこの本を読んで、いちばん考えさせられたのは「居場所(アジール)の大切さ」です。

みなさんには、自分のありのままを受け入れてサポートしてくれる居場所はありますか?

本書で説かれていたように、ケアに満ちた居場所(アジール) はすべての人に必要とされています。

それでも、僕らは居場所を必要とする。「いる」が支えられないと、生きていけないからだ。だから、アジールはいつも新しく生まれてくる。たとえそれがすぐにアサイラムになってしまうとしても、それは必ず生まれてくる。

僕が運営に携わっている天理教綾部分教会は、誰かのありのままを受け入れてサポートする「居場所(アジール)」になれているか?

もしかすると、誰かのありのままを認めずに生き方を縛りつける「監獄(アサイラム)」になっていないか…?

コミュニティの運営について、とても深く考えさせられる良著でした。コミュニティの運営に携わる立場の人には、本当におすすめの一冊です!

それではまた、次の記事でお会いしましょう。信ちゃん(@shin0329)でした!

タイトルとURLをコピーしました