こんにちは。『今日も信仰は続く』を運営している信司です。気軽に信ちゃんって呼んでくれたら嬉しいな。
みなさんは、大切にしている言葉はありますか?
僕は、最近まで「あたりまえなことなんて無い」という言葉を大切にしているつもりでした。
目が見えることとか、耳が聞こえることとか、声が出せることとか、手足が自由に動かせることとか。
他にも数えてみればキリがないですが、そんな「あたりまえ」のように感じてしまうことたちが、僕らの毎日には欠かせません。どれか1つでも無くなってしまうと、日常は不安が絶えないグラグラしたものになってしまうからです。
例えば、目が見えなくなったら?耳が聞こえなくなったら?言葉が話せなくなったら?自由に歩けなくなったら?
想像してみただけでも、不安になりますよね。実際にケガや病気などで体験すれば、なおのこと。それは同時に「あたりまえではなかった」と感じる瞬間でもあります。
大切なことは、失ってはじめて気づかされることが多い。だからこそ、失ってしまう前に「あたりまえ」を「あたりまえ」だと思わず、感謝することが大切なんだと思っていました。
「あたりまえ」になってしまうから

けど、どれだけ気をつけていたって、人間は繰り返し忘れてしまう生き物ですからね。
- 朝、無事に目が覚めること
- 目が見え、耳が聞こえ、声が出ること
- 健康で過ごせていること
- 食事が楽しめること
- 手足が思ったように動かせること
こういうことはすぐに「あたりまえ」だと感じるようになります。良くないことだとは思いますが。
また、天理教を信仰をしているとよく「この世にあたりまえなことなんてないんだよ、だから神様に感謝しなくちゃいけないよ」と教えていただくことがあります。
ですから、以前の僕はよく「確かにそうだなぁ、何事もあたりまえだと感じていたなぁ。これからは感謝の気持ちを忘れないように生きていかないとなぁ」と反省していました。
「あたりまえ」にこそ「ありがとう」

けれど、それももう、止めちゃいました。
それが正しいことなのかはわかりません。けど、やっぱりどうしたって忘れてしまうから。その度に、「後ろめたさ」みたいなものを感じて、ついつい忘れがちな自分を反省していたつもりなんだけど、「反省」するよりももっと「感謝」することを大切にするべきだなと感じるようになってきたからです。
ものごとが「あたりまえ」になっちゃうのはきっと悪いことじゃなくて、ただ「ありがとう」を伝えるタイミングがきただけなんだ。そう思うと、なんだか気が楽になりました。
それも神様が用意してくださったことだと思うのです。感謝と喜びが尽きない暮らしを送れるように。
「二つ一つが天の理」
僕の信仰している天理教には、「二つ一つが天の理」という教えがあります。
「二つ一つが天の理」とは、相反するもの同士が、その特徴や個性を活かしつつ、バランスよく調和していくことが天の理、ザックリ言うと天=神様、理=法則なのでつまり、
神様が用意したこの世の法則だという教え。
例えば、太陽と月、火と水、父性と母性、など。どれも片方だけ、もしくは片方が強すぎると、バランスを崩していろいろな問題を起こしてしまうけど、どちらも「らしさ」を失うことなく調和するとき、世界は安定し、より良く発展していきます。
経営の神様と呼ばれた、松下幸之助(Panasonic創業者)のいう「対立しつつ調和する」という思想にも「二つ一つが天の理」に通じることがあると思います。
考えてみれば、この宇宙のいっさいのものはすべて対立しつつ調和しているのではないだろうか。
それぞれのものがそれぞれの個性というか特質をもって、いわば自己を主張し合っている。それが対立である。だから、月と太陽も対立しているし、山と川も対立している、男と女も対立していると考えられる。しかし、ただ対立しているだけかというと、そうではなく、対立しながらも、互いに調和しあって、この大自然なり人間社会の秩序というものをかたちづくっているわけである。
だから、対立と調和ということはいわば一つの自然の理法であり、社会のあるべき姿である。
『ドラッカーと松下幸之助』 / 著者:渡邊祐介
相反するものごとが、「らしさ」を失わず調和していく。お互いにプラスに作用していく。そのなかから、新しいものごとが生まれていく。これが「二つ一つが天の理」と教えられる法則だと思います。
「あたりまえ」の大切さ

きっと「ありがとう」と「あたりまえ」も二つ一つ。
それは例えるなら、オセロゲーム。表と裏、白と黒をお互いに何度もひっくり返していくように、何度も「あたりまえ」になってしまうものごとを「ありがたい」ことに返してくような。
- 「おはよう」と言ってくれる人がいること
- 食事を用意してもらえていること
- 家族が今日も元気に通勤・通学してくれたこと
- 「いってらっしゃい」と言ってくれる人がいること
- 今日も元気に働けること、頼りにされていること
- 「おかえり」と言ってくれる人がいること
どれも今思い出した、僕にとってたくさんの「あたりまえ」でした。これが本当にオセロゲームなら、圧倒的に劣勢です…!
また、ひとつづつ「ありがとう」と伝えて、表向きにしておこうと思います。
「あたりまえなことなんて無い」んじゃなくて「あたりまえなことの数だけ、ありがとうが伝えられる」。そんなやりとりから生まれてくる「幸せ」を、これからも大切にしたいです。
それではっ!