たとえどんな別れでも、僕は「また会いましょう」と告げる|天理教の死生観と「出直し」について、わかりやすく。

たとえどんな別れでも、僕は「また会いましょう」と告げる|天理教の死生観と「出直し」について、わかりやすく。

今日も信仰は続く

いつかきっと、また会いましょう。

こんにちは!『今日も信仰は続く』を見ていただいてありがとうございます。桑原信司(@shin0329)です。

信ちゃん
信ちゃん

気軽に信ちゃん、って覚えてくれたら嬉しいな~!

7月7日は七夕ですが、僕にとっては祖父の命日でもあります。早いもので、もう4年が経ちますね。

(ちなみに享年77歳でした。きっとラッキーセブンが好きだったのでしょう笑)

年数が経ったから、と言えばその通りなのですが、不思議ともう「悲しみ」はありません。

なぜなら、僕が信仰している天理教では、人が亡くなることを「出直し」と呼び、どちらかと言えばポジティブな受け取り方を促されるからです。

【信仰とは、心に柱を建てること】。僕ももう30歳近くになり、これまで幾度となく「故人との別れ」を経験してきましたが…いつもこの「出直し」の教理に救われていました。

「いつかきっと、また会いましょう。」

僕がいつもお葬式で故人にそう告げるのは、この「出直し」の教理が心を支えてくれるからです。

というわけで、未信仰の方にもわかりやすく、天理教の死生観について解説していきますね。

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人は死んだらどうなるの?

「人は死んだら、いったいどこへ行くんだろう?」

きっと誰でも一度は、「死」について考えたことがあると思います。身近な人が亡くなったり、映画やドラマでそういったシーンを見たときに。

(ちなみに僕は小学生のころ、映画『タイタニック』の壮絶なラストを見て「人はいつか死ぬ」ことが怖くなり布団のなかで号泣した覚えがあります笑)

やはり命は限りあるもの。それはどんな人にも等しく絶対で、この理に逆らうことはできません。

ただ、頭ではそうわかっていても…いざ「死」の現場に直面すると辛く感じてしまいますよね。そんな痛みや苦しみから逃れるために、人は「死後の世界」に想いを馳せたりしてきました。

「死後の世界」ってあるのかな?

この「死後の世界」を創造するのは、古くから宗教の役割でした。さまざまな宗教が、天国や極楽、また終末思想を説き、人の「死」には大きな意味を、そして残された遺族には安心感を与えてきました。

いや、むしろ「宗教」という営みの有無こそ、人と動物の決定的な違いと言えるのかもしれません。

このことは、内田樹教授の著書『街場の教育論』がとってもわかりやすく解説されていたので、ちょっとご紹介しますね。

それまで、霊長類は「死者」という概念をもっていませんでした。「死んだ同類」はセミの抜け殻や枯れ葉と同じような平凡な自然物であり、そのままに遺棄されました。

チンパンジーの母親は死んだ子どもの死骸をいつまでも抱きしめています。生きている子どものように取り扱うのです。そのうち死骸が腐乱してぼろぼろに解体すると、そのまま棄ててしまいます。「生物」から「モノ」へジャンプする。生きているのでもないし、無生物になったわけでもない中間地帯というものを人間以外の霊長類はおそらく知りません。

でも、あるとき、死んだ同類はダイレクトに自然物に還るのではなく、その中間プロセス を経過するということを思いついた霊長類の一部がいた。それが人間の祖先です。彼らは 「生きている者」と「自然物」の中間に「死者」という第三の概念を挿入したのです。

つまり、チンパンジーや他の動物と違って、人間だけは「死者」という存在を信じている。つまり「霊性(spiritual)」を備えているということです。

だからこそ私たち人間は「宗教」と関わり、「死後の世界」をイメージすることができるのでしょう。

天理教の死生観

ところが、天理教では死後の世界の考え方が、他の宗教と少し違います。

わかりやすく説明すると、いわゆる「あの世」の概念がほとんどないのです。

なぜかというと、天理教では「人は何度でも生まれ変わる」ことを教えられているから。

つまり死んだ後は「あの世」にいくのではなく、再び「この世」に生まれ変わってくるという世界観。つまり「死」は命の終わりではなく、命の再出発だと説かれるのです。

ですから天理教では、死者に対して「亡くなる」という言葉は使いません。代わりに「出直す」という言葉を使います。

人間の主体は「たましい」

この「生まれ変わり」の教えを説くとき、「たましい」と「肉体」の関係性について、もう少しハッキリとさせておく必要があるでしょう。

そもそも、僕たちの主体(コア)は、「たましい」と「肉体」のどちらに宿るのか? 

これは天理教だと「たましい」と教えられます。有限である「肉体」と違って、この「たましい」は、いつまでも生き続ける無限のもの。

信ちゃん
信ちゃん

だからある意味、僕も君も「永遠の命」…!(厨二病)

ですから「肉体」は、あくまで「たましい」がこの世に存在するために必要とする乗り物だと教えられます。

この概念を天理教では「かしもの・かりもの」と教えられていますね。

つまり、わかりやすくするとこんなかんじ。

僕らの主体である「たましい」は、この世に存在するために神様から肉体を「借りている」。

なので「肉体」は、コアである「たましい」が抜ければただの自然由来の物体なので、分解され自然に還っていく。

「肉体」を失った「たましい」は、再び「肉体」を借りてこの世に出直す。

(はじめに戻る)

これが天理教の死生観になります。

天国や地獄などの「死後の世界(あの世)」を確立させている他宗教と違って、死ぬことと生まれ変わることが必ずセットになっているのが特徴ですね。

だから「また会いましょう」

このように教えられているからこそ、僕はこの「出直し」の教理に救われているところがあって。

もちろんこれまでの人生のなかで、辛く悲しい「永遠の別れ」もたくさん経験してきたのけど…

いつか、いつかこの人も出直して、この世のどこかで新しい人生をスタートさせるんだろうなと思うと、なんだか少し勇気を貰えるんですよね。いつまでもメソメソしてられないな、僕も頑張らなくちゃ、みたいな。

そうやって「たましい」は途切ることなく、星の数ほどの人生を繰り返して…このサイクルはまわし続けていくのでしょう。

神様が設定した「陽気ぐらし」というゴールテープを切るまでは。

まわるまわるよ時代はまわる

喜び悲しみくり返し

今日は倒れた旅人たちも

生まれ変わって歩き出すよ

中島みゆき / 時代

僕がどんな出会いにも感謝し、またどんな別れであっても「いつかきっと、また会いましょう」と告げる理由は、

「今世で出会った人々のなかには、前世でそんな約束を交わした相手がいるかもしれないから」

たとえ前世の記憶がなくったって、僕の「たましい」にはきっと刻まれているはずですからね。きっと、ね。

それではまた、次の記事でお会いしましょう。信ちゃん(@shin0329)でした!

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