「寄り添う」ことの大切さと難しさ。落ち込んでいる人にかける言葉は?

「寄り添うこと」の大切さと難しさ

信仰エッセイ

こんにちは!『今日も信仰は続く』を見ていただいてありがとうございます。桑原信司(@shin0329)です。

信ちゃん
信ちゃん

気軽に信ちゃん、って覚えてくれたら嬉しいな~!

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先日、cakesで写真家の幡野広志さんが書かれた「トンデモとトンデモ以外を分けるものとは何か?」という記事を読みました。(現在も無料公開中です)

幡野広志さんについては、ご存知の方も多いとは思いますが、一応説明しておきますね。

幡野広志(はたの ひろし)さんは写真家ですが、34歳の若さで多発性骨髄腫という血液のガンを発症し、余命3年と宣告された患者でもあります。このことは自身のSNSで公開されて話題になりましたよね。

そしてなぜか、余命をSNSで告白した幡野さんのもとには、不思議にも大量の人生相談が届くようになったそうです。で、それをcakesでまとめられた連載記事が「幡野広志の、なんで僕に聞くんだろう。」というわけ。

昨年、書籍になっていましたね。幡野さんの魅力が詰まった本なので、興味のある方はぜひ。

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トンデモの正体とは?

記事に挿入された幡野さんの写真

で、話を本題に戻しましょうか。

この記事の内容をザックリ説明すると、エビデンスが曖昧な民間医療や健康法(=トンデモ)を周りに勧めていることに不安を覚えるようになった30代の女性が、幡野さんに意見を求めるというお話です。

そして気になる幡野さんの回答は、「他人を救うふりして自分の主義や信条や利益のためにやっている」のなら、それは迷惑でしかないというものでした。

人工甘味料に不信感を持っていたり、ニンジンとビワの自然治療を信じていたり、おなじ神様を信仰する人がほしかったり、商売のためだったり、原発が嫌いだったり。結局のところ、ぼくを救うふりして自分の主義や信条や利益のためにやってるんです。病人を自分の主義を補完するためのものと考えているんです。

それぞれの善し悪しは知らないけどノーリスクで自分の考えを押し付けてくる人たちと、仕事ではあるけどぼくのためにリスクを負って治療をしてくれる医療者、どっちが信頼できるとおもいますか? 病人に寄り添う人と、病人を寄り添わせようとする人じゃ雲泥の差ですよ。

トンデモとトンデモ以外を分けるものとは何か? より引用

読みながら「そうそう!まさにこれ!」と声に出してしまった部分。

「他人を救うふりして自分の主義や信条や利益のためにやっている」ことは、それ自体の良し悪しは抜きにして、人としてやってはいけないことだよな、と僕も強く感じるんですよね。

それは優しさか、それともエゴか

人生には解決できる悩みと、解決できない悩みがあって、後者はときに「絶望」と呼ばれるそうです。

たとえば、大切な人が亡くなったとき。かけがえのないものを失ったとき。

僕も母親が亡くなった15歳のとき、交通事故で右足が動かなくなった25歳のとき、それはそれは深く絶望しました。

どれだけ嘆いても母親は生き返らないし、どれだけ後悔しても右足は元通りには動かない。まさに解決できない悩み(=絶望)に、心が押し潰されそうになった経験があります。

けど、そういうときに限って、幡野さんが言っている「優しい虐待」をするために駆けつけてくる人が現れるんですよね。

あなたは優しい人です、悪い人じゃありません。でもね、「ありがた迷惑」という言葉もあるし、「地獄への道は善意で舗装されている」ということわざもあります。ぼくは、そういう行いを「優しい虐待」って呼んでいます。

トンデモとトンデモ以外を分けるものとは何か? より引用

僕は天理教の教会で生まれ育ったので、お見舞いに来てくれる人や、メッセージをくれる人にも天理教の方が多くて。

彼らは「人助けたら我が身助かる」という教えを信じていて、困っている人を助けることと、自分が救われることは同じことだと考えている人たちなんです。なので、たくさんの人が、僕のもとに「善意」を届けてくれました。

けど、そのなかには「他人を救うふりして自分の主義や信条や利益のために」運ばれてくる善意があったことも、ここでは正直に書いておきたいと思います。

自分の主義や信条のための「善意」

「普段から人とぶつかることが多いから、車とぶつかる交通事故にあったんだ。これからは心を低くして、目上の人の言うことをしっかり聞いて通りなさい」

僕が絶望に打ちひしがれていたとき、とある人に言われた言葉。もちろん落ち込む僕のことを、なんとか励ましてやりたいと思っての言葉だと思います。

けど、実際はそんな言葉に耳を傾けるほどの心の余裕がなかった。すでに悲しみと不安でいっぱいになっていて、その人の「善意」を素直に受け取ることができなかったんですよね。

「頑張れ!」という言葉の呪縛

また、(僕の場合はですが)「頑張れ!」と手放しで応援されるのもつらかった。

なぜなら、「頑張れ!」という応援のメッセージが、僕の心の中にいる「頑張れない自分」を認めようとしてくれないからです。

そりゃあ僕だってもちろん頑張りたいけど、心がポキっと折れて、ぜんぜん頑張れない日もある。けどそのタイミングで「頑張れよ!」と言われると…

「はい…すみません」ってなっちゃうんですよね。これも結構、つらかったんです。

「寄り添う」ということ

だからこそ、一緒に傷つき、悲しんでくれる人や、小さなことでも一緒に喜んでくれる人が側にいてくれると、とっても居心地が良かったんですよね。

頑張りたいけど、頑張れない。笑っていたいけど、笑えない。そんな矛盾を優しく包む込むような、広い心とぬくもりがそこにあったからだと思います。

先述した「人助けたら我が身助かる」という天理教の教えは、言い方を変えれば「自分が同じような立場にいたら、どんな風に助けてほしいと思うだろうか?」ということを優先して考えなさい、という教えでもあります。

そして僕の友人や尊敬している人は、みんなそれを念頭に置いて僕のもとへ駆けつけ、そして優しく寄り添ってくれました。

それは本当に嬉しかった。その人たちの善意があったからこそ、僕は再び立ち上がることができたんだと思っています。

「病人に寄り添う人と、病人を寄り添わせようとする人じゃ雲泥の差ですよ」

幡野さんのこの言葉は、かなり的を得ていると思います。病院のベッドの上って、想像以上に孤独でしたから(だからこそ、人の影響を受けやすいのだけど)。

病人に寄り添う人と、寄り添わせようとする人。今の自分がどちらのスタンスをとっているか、今一度考えるきっかけをくれた記事でした。

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生きるのがつらいときは

できることなら忘れてしまいたい、だけど忘れられないという苦しみは…

ゆっくりと時間をかけて、少しずつ溶かしていくことでしか消せなかったなと感じます。僕の場合は、ですが。

でも、それができたのは幸運でした。だって本来なら、トラウマと向き合い続けるのはなによりも辛いことだから。

そんな辛いはずのプロセスを支えてくれたのは、悩みを聞いて共感してくれたり、頑張ったり頑張らなかったりする僕を優しく包み込むように寄り添ってくれた人たちのおかげです。

だからもし、あなたが今辛い思いをしているのなら、僕でよければこちらのページからメールを送ってみてください。

僕がしてもらって嬉しかったように、あなたの悩みを共感して、頑張りたいけど頑張れないあなたをまるごと受け止めてみたい。

それでは。

あとがき

実は僕も幡野さんが撮った写真を、1枚だけ持っているんですよね。以前ご紹介した岸田奈美さんの「家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった」に挟まれていた、岸田家の家族写真です。

みんなすっごいいい笑顔ですよね。癒されるわぁホント。

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