故人に「また会いましょう」と言える、この有り難さを伝えたい|天理教の死生観と「出直し」について、わかりやすく。

故人に「また会いましょう」と言える、この有り難さを伝えたい|天理教の死生観と「出直し」について、わかりやすく。

今日も信仰は続く

こんにちは!『今日も信仰は続く』を見ていただいてありがとうございます。桑原信司(@shin0329)です。

信ちゃん
信ちゃん

気軽に信ちゃん、って覚えてくれたら嬉しいな~!

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最近、ようやく「大人と子供の違い」が上手く説明できるようになりました。

大人と子供の違い、それは「すべてのものには終わりがあること」をどれだけ自覚できているかだと思います。

友人との別れ、学校の卒業式など、子供たちはさまざまな体験を通して「終わり」を意識し始めます。なかでもお葬式は、この「終わり」をとくに強く感じさせる体験ですよね。

僕ももう30歳近くになりましたが、これまで幾度となく「故人との別れ」を経験してきました。

が、そんな寂しい別れのなかでも、ずっと僕の心を支えてきた教えがあります。それが天理教の「出直し」の教えです。

「いつかきっと、また会いましょう。」

僕がお葬式で故人にこう告げるのは、この「出直し」の教えを信じているからなんですね。

というわけで、未信仰の方にもわかりやすく、天理教の死生観について解説します。

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人は死んだらどうなるの?

「人は死んだら、いったいどこへ行くんだろう?」

きっと誰でも一度は、「死」について考えたことがあると思います。身近な人が亡くなったり、映画やドラマでそういったシーンを見たときに。

(ちなみに僕は小学生のころに映画『タイタニック』を見て、死ぬのが怖くなり本気で泣きました笑)

悲しいですが命は「いつか終わる」ものです。それはどんな人にも等しく絶対で、この流れに逆らうことはできません。

ただ、頭ではそうわかっていても…いざ「死」の現場に直面すると辛く感じてしまいますよね。

だからこそ僕たちは、心の痛みや苦しみを和らげるために、「死後の世界」を想うことにしたのだと思います。

「死後の世界」ってあるのかな?

この「死後の世界」を提供するのは、古くから宗教の持つ大きな役割でした。天国や極楽浄土、最後の審判など、さまざまな教えで故人の「死」に大きな意味を与え、残された遺族に安心感を与えてきました。

どこの世界の、どんな少数民族でも、人が亡くなったら必ず「お葬式」をあげます。

しかし、よくよく考えてみると、これって人間だけなんですよね。現代思想家の内田樹教授も、著書『街場の教育論』でこのように書かれています。

それまで、霊長類は「死者」という概念をもっていませんでした。「死んだ同類」はセミの抜け殻や枯れ葉と同じような平凡な自然物であり、そのままに遺棄されました。

チンパンジーの母親は死んだ子どもの死骸をいつまでも抱きしめています。生きている子どものように取り扱うのです。そのうち死骸が腐乱してぼろぼろに解体すると、そのまま棄ててしまいます。「生物」から「モノ」へジャンプする。生きているのでもないし、無生物になったわけでもない中間地帯というものを人間以外の霊長類はおそらく知りません。

でも、あるとき、死んだ同類はダイレクトに自然物に還るのではなく、その中間プロセス を経過するということを思いついた霊長類の一部がいた。それが人間の祖先です。彼らは 「生きている者」と「自然物」の中間に「死者」という第三の概念を挿入したのです。

そうなんです。一般的に知能が高いとされているチンパンジーでも、仲間が死んだときに「お葬式」をすることができません。

なぜなら、「霊性(spirituality)」を持っていないからです。

故人を偲び、その悲しみを分かち合い、「亡くなったあの人は、きっと今ごろ…」と考えることができるのは、僕たち人間だけに与えられた特別な力なんですよね。

天理教の死生観

では、天理教のお葬式には、どのような意味があるのでしょうか?

故人の死をどう捉え、遺族にどのような安心感を与えるのでしょうか?

実は、天理教では「死後の世界」の考え方が他の宗教と少し違うんですよね。

かんたんに説明すると、いわゆる「あの世」の概念がほとんどないのです。

なぜなら、亡くなった故人はまた、この世に生まれ変わってくるからです。つまり「死」は命の終わりではなく、命の再出発だということ。

ですから天理教では、死者に対して「亡くなる」という言葉は使いません。代わりに「出直でなおし」という言葉を使います。

人間の主体は「たましい」

そもそも天理教では、「からだ」と「こころ」を分けて考えています。

「からだ」は神様から借りている神様由来のもので、「こころ」は自分本来のものです。

これを「かしもの・かりものの理」と教えられます。

ですから、人が亡くなるということは、神様に借りていた「からだ」を返すことなんだと教わるのです。

ではこのとき「からだ」を失った「こころ」は、一体どうなるのかと言うと…?

また新しい「からだ」を神様にお借りして、この世に息を吹き返すんですよね。

だから「また会いましょう」

僕はこの「出直し」の教えに救われたことがたくさんあって。もちろんこれまでの人生で体験した「永遠の別れ」は、どれも辛くて苦しいものだったけど…

それでも、いつかこの人も出直して、またこの世界のどこかで新しい人生をスタートさせるんだと思うと、なんだか少し勇気を貰えるんですよね。

いつまでもメソメソしてられないな、僕も頑張らなくちゃ、みたいな。

まわるまわるよ時代はまわる

喜び悲しみくり返し

今日は倒れた旅人たちも

生まれ変わって歩き出すよ

中島みゆき / 時代

僕がどんな出会いにも感謝し、またどんな別れでも「いつかきっと、また会いましょう」と告げるのは、そういう教えを信じているからなんですよね。

なのでもちろん、自分が死ぬときの最後のセリフは決めてあります。ニッコリ笑って「また会いましょう」です。

できるだけたくさんの家族に聞いてもらえたら、幸せな最後になるだろうなぁ。

それではまた、次の記事でお会いしましょう。信ちゃん(@shin0329)でした!

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