天理教嫌いな僕が、天理教の後継者になった理由

僕が天理教の信仰をしているのは、亡くなった母親のような明るく優しい人になりたいからです

信仰エッセイ

こんにちは!『今日も信仰は続く』の桑原信司です。

気軽に信ちゃん(@sh1n0329)、って呼んでもらえたら嬉しいな。

今日は「僕が天理教を信仰しはじめたきっかけ」についてお話していこうと思います!

神様を信じていない人や、神様は信じていても宗教には抵抗のある人にとって、おそらく気になるポイントだと思うのですが、どうでしょう?笑

需要があるのかわかりませんが、今の僕にとって大切な思い出ですから、丁寧に振り返っていこうと思います。

どうぞ、お付き合いください。

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教会生まれ、教会育ち

自宅の玄関にて

僕は1992年生まれ。現在は31歳です。

京都府綾部市にある「天理教綾部分教会」という教会の長男として生まれ育ちました。そうです。実は僕、教会生まれ、教会育ちなんです。

ですから、もちろん生まれたときから「信仰」は家族全員の営みでした。

みんなも子供の頃、「サンタさんの存在」を心の底から信じていたでしょう? それと同じで、僕も純粋に心の底から「神様はいる」と信じて育ちました。

しかし、大きくなるにつれて「神様って本当にいるのかな?」と疑うようになりました。

いや、疑わざるを得ない、という時期だったのかもしれません。

それは僕にとっての「宗教」と、社会にとっての「宗教」のイメージに、大きな「差」を感じはじめたからでした。

宗教=ヤバいやつ の価値観に震えた思春期

僕が生まれ育った2000年前後は、オウム真理教による「地下鉄サリン事件」や、アルカイーダによる「9.11同時多発テロ」、ISIL(イスラム国)による処刑動画のネット公開など、宗教がらみの事件が多発していた時代でしたからね。

世間でも「宗教を信じている人=ヤバいやつ」という認識が共有されはじめたころでした。

昔から背が小さく、弱気で臆病な性格だった僕は、実家が天理教の教会であることを理由に、学校でいじめられるんじゃないか? とひどく怖がるようになりました。

今になってみれば考えすぎだと思うのですが…それでも「なんだかみんなと違う」ことへの焦りと不安はどんどん膨らんでいき、ついには天理教と教会が嫌になり、ここから離れることを決意。

そこで、まずは就職率の高い工業高校に進学しました。卒業後の進路は、もちろん就職。実家を離れ、遠くの町で一般人として人生をやり直すために、夢中で勉学に打ち込んでいました。

そんな高校1年生の秋、忘れもしない「あの日」がやってきます。

突然の別れと、神様の裏切り

それはあまりにも突然の出来事でした。

いつものように仕事から帰ってきた母親は、ずいぶんと顔色が悪く、頭が痛いと弱音をこぼしていました。心配そうに伺っていると、母は「神様にお願いするから、あなたたちも一緒に来てくれる?」と言うので、兄弟全員で神殿に行き、母と一緒に祈りました。

「神様、どうかお母さんの頭痛をやわらげてください」と。

しかしその後、吐き気がする、といってトイレに行ったまま帰ってこない母が心配になり、様子を見に行くと…そこには意識を失いかけていた母が倒れていたのです。

僕は慌ててかけより、何度も、何度も母を呼び続けました。しかし返事はなく、妹が呼んでくれた救急車で病院に運ばれましたが、そのまま亡くなってしまいました。

死因はくも膜下出血。当時、母は41歳でした。日本人女性の平均寿命からすれば、およそ半分ほどの短い生涯でした。

怒りと悲しみで塗りつぶしていく「信仰」

僕はこの時ほど「神様なんていない!」と思った日はありません。

母親は家庭内でも特に信仰熱心な人でした。だから「それなのに、どうして?」という感情が頭から離れなかったんです。

このことがあってから、僕は「信仰」を止めてしまいました。神様を信じることが、とってもバカバカしく思えたからです。

だって家族の誰よりも神様を信じていた母が裏切られたんだから。やってらんねーよ、と。

差し伸べられた手の向こうに

それからの生活は大変でした。残された家族は父親と15歳の僕と、さらに小さな3人の妹・弟たち。トラブル続きの毎日で悲しむ暇もなく、とにかくがむしゃらに日々を過ごすしかありませんでした。

だけど、その度に驚くほど多くの人が、救いの手を差し伸べてくれたおかげで、僕たち家族はなんとか生きることができていました。あの時支えてくださった方々には、感謝の気持ちでいっぱいです。

特に教会に出入りしていた信者の方々には、母の代わりにご飯やお弁当を作ってくださったり、家の掃除を手伝いに来てくださったり、なにかと身の回りのお世話になりました。

だけど、僕がなによりも嬉しかったのは

あなたのお母さんには良くしてもらったから

と、優しく声をかけてくれる方が、何人もおられたことでした。

僕はとってこの言葉は、やがて「魔法のコトバ」になっていきます。なぜなら、その人を通して、亡くなった母に会えたような気がしていたからです。

「支えてくれて、ありがとう」

それはたしかに、親から子へ直接注がれるものではありませんでした。

けれど、僕たち家族のために、時には身を削って奮闘してくださるたくさんの人の優しさの奥には、「母親の存在」が確かにありました。

母の生き方のおかげで、僕たち家族は救われている。

そうやって、母は今でも家族を愛し続けてくれている

それは、寂しい日々の中でも確かな「心の安らぎ」を与えてくれる瞬間でした。

そして同時に、こんなにも多くの人から慕われる母のすごさに気づかされた瞬間でもありました。

天理教の信仰では「優しくなること、人を助けること」が大切だと教えられます。

信仰熱心だった母は、家族以外の人たちにも優しく思いやりをもって接することができる人間だったのだと思います。そうでなければ、僕たち家族のもとにあれほど多くの方が駆けつけてくれるはずがありません。

そこに改めて気づかされたとき、僕はもう一度、母が大切にしていた「信仰」を求めてみよう、と思えたんです。

まずはお世話になった方々へ、しっかり恩返しがしたかったから。そして、いずれは母のように優しく思いやりに満ちた、前向きな人になりたいと思ったから。

今日も信仰は続く。

この経験が大きな原動力となって、僕は「信仰のある暮らし」を再スタートさせたのでした。

まだまだですが、これからも天理教の教えを求めながら、母のように明るく優しく、思いやりに満ちた人間になりたいなと思っています。

ちなみに、信仰を続けてきたからこそ、今でも母のこと(名前は 桑原旬子 と言います)をよく知る人たちと出会うことがあります。それは僕を初心に返らせてくれる大切な機会でもあり、その奥に母のエールを感じる瞬間でもあります。

お母さんいつもありがとう。僕は今日も信仰を続けます。

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