宗教家の仕事は「信じる勇気」を分け与えることだと思う

宗教者の仕事は「信じる勇気」を分け与えることだと思う

信仰エッセイ

こんにちは!『今日も信仰は続く』を見ていただいてありがとうございます。桑原信司(@shin0329)です。

信ちゃん
信ちゃん

気軽に信ちゃん、って覚えてくれたら嬉しいな~!

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最近はそうでもないけど、昔から「どういうお仕事をされているんですか?」と初対面の人に聞かれるのが苦手でした。

「ええっと…天理教の教会?で事務的なことをしていて…あ、ちなみに天理教ってご存知ですかね…?」

9割くらいは、こんなかんじで(笑)

これまでさんざん悩まされてきた質問でしたが、最近になってようやく「これかな?」という自分なりの答えが出せたような気がします。

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宗教家のお仕事とは?

僕は、神様を信じています。

この「信じる」という意思決定は、たとえその根拠が薄くても「認める」ということです。自分の常識の外にあるものや、目には見えないもの、科学的に証明できないものに対して、

「それは確かに、ここにあるんだ」

と、自分の意志を手がかりにして発現させることだと、僕は思っています。

ですから、そこに客観的な証拠はいりません。「知っている」と言えるほどの材料がなくても、主観的にそれを認めることは自由にできるからです。

目に見えないものを、認めるということ

ここで言う「目には見えないもの」「科学的に証明できないもの」というのは、なにも宗教や神様に限定した話ではありません。

科学技術でも証明できないものなんて、この世界にはまだまだたくさん残っていますから。

たとえば「愛情」もそうですよね。両親やパートナー、友人から「愛されている」ということは、データや物質で計り知ることはできません。

まぁ、いつかはスカウターみたいな機械で測定できる未来がくるのかもしれませんが…

※画像はイメージです

そんなことをしなくたって、この世界に「愛情」は確かに存在しています。

友情や期待、信用とか幸福だってそうです。客観的なデータや脳科学の研究なんかなくても、ほとんどの人が主観的に認めている、つまり「信じている」はずです。

信じられない、はつらい

ところが、この「信じる」という意思決定ができずに悩む人がいます。

僕もこれでも宗教家の端くれなので、さまざまな悩みを抱えた人のカウンセリングを週に2回ほど行っているのですが…

  • 自分は親に愛されていない
  • 信頼できる友人がいない
  • 仕事を頑張っているけど、周りが認めてくれない

寄せられるさまざまな悩みのなかには(それってあなたの思い込みによる部分も大きいのでは…?)と感じるケースもあります。けど、これはあくまで第三者の意見。

大切なのはやはり「本人がどう感じているか?」ですから、その辺りを勘違いしてはいけないと思います。

彼らはただ、複雑な環境や過度のストレスによって「信じる」ことができにくくなってしまっただけなんですよね。

「信じる勇気」をあなたへ

ですから、最近のカウンセリングではいかに「信じる心」を持ち直せるか?というアプローチで取り組んでいます。

僕が普段からしている「信仰」は、神様の存在を信じて生きていくこと。当然この「神様」は、その存在を客観的に証明することはできません。

それでも、僕の心が強く願うとき、そこには確かに神様が「いる」のです。

親からの愛情や、周囲の人たちとの友情、上司からの期待も同じです。そこに客観的な証拠がなくても、「信じる」という意思決定によって主観的に認めることは誰にだってできるはずです。

そしてこの「信じる」を普段から欠かさないための「心の修養」に励む日々にこそ、信仰者としてのアドバンテージはあるだろうし、そこで得た経験や考え方のヒントを悩んでいる人たちに届けていくことが、僕の仕事なんだろうなと思うようになりました。

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「桑原さんって、普段はどういうお仕事をされているんですか?」

「目に見えないものを信じる。いつでもそんな心でいられるように日々努力することと、そこで培った経験や考え方のヒントを、たくさんの人に届けることです。」

……どういうこと??? って言われそうな気もするけど、とりあえずしばらくはこれでいこう。

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あとがき

天理教の教祖にまつわるエピソードのなかに「神様の姿」について言及された話が残っているので、最後にサクッとご紹介しますね。

あるとき、おやさま(教祖のこと)は熱心な信者から「神様の姿は有るのか、と尋ねられるのですが、どのように答えたらよろしいですか?」と聞かれたとき、次のように答えました。

「在るといえばある。無いといえばない。願う心の誠から、見える利益が神の姿やで」

『正文遺韻』(諸井政一著)より引用

神様の存在は客観的に証明できるものじゃなけど、「願う心」によって顕現させることができる。

わかりやすい言い方だな~、と思いました(小並感)

それではまた、次の記事でお会いしましょう。信ちゃん(@shin0329)でした!

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