まるで『キングダム』!アラビアを「武力」で制圧し「法」によって統一したイスラム教の開祖、ムハンマドの生涯についてわかりやすく。

まるで『キングダム』!アラビアを「武力」で制圧し「法」によって統一したイスラム教の開祖、ムハンマドの生涯についてわかりやすく。

わかりやすい宗教学

こんにちは!『今日も信仰は続く』を見ていただいてありがとうございます。桑原信司(@shin0329)です。

信ちゃん
信ちゃん

気軽に信ちゃん、って覚えてくれたら嬉しいな~!

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今日は前回に引き続き「わかりやすい宗教学シリーズ」の第2弾。

▼前回の記事はコチラ!

7世紀ごろに成立し、現在でも16億人の信者数を誇るイスラム教の開祖「預言者ムハンマド」について、わかりやすく説明していきます!

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預言者ムハンマドの人生

ムハンマドは西暦570年ごろ、現在のサウジアラビア西部にある「メッカ」という都市で生まれました。

ムハンマドの一族は「クライシュ族」といって、このメッカを中心に商業を営んでいましたが、彼の出生後はすでに没落していたようです。

彼も6歳のときに両親を亡くし、その後は祖父に育てられました。しかし祖父も2年ほどで亡くなったので、後は叔父に育てられました。

信ちゃん
信ちゃん

かなりの苦労人なんだね…!

この幼少期の経験は、後にまとめられたイスラム教の聖典『コーラン』にも大きく影響を与えているという説もあります。

いや、まことにけしからぬ。汝らは孤児は大事にしてやらず、貧乏人に食わせることなど気乗りうす。そのくせ他人の遺産にはがつがつ喰いつき、財産を愛するその愛のすさまじさ。

『コーラン』89章

このようにイスラム教では「社会的弱者に対する救済」に力を入れて説き、そうでない人々を強く批判しています。

天使ガブリエルの恐喝

そんな幼少期を過ごしたムハンマドでしたが、大きくなるにつれ、その商才を発揮しビジネスパーソンとしての頭角を現します。

ここでその人柄が見込まれて、大金持ちの未亡人ハディージャと結婚。ちなみにこのときムハンマドは25歳で、妻ハディージャは40歳だったので、15歳差の「年の差婚」でした。

しかし結婚後は子宝に恵まれた(女4人、男2~4人)ことなどから、ハディージャはもっと若かったのではないか?という説もあります

ようやく安定した暮らしを手に入れたムハンマドは、やがてヒラー山にある洞窟で瞑想にふけるようになります。

動機は諸説ありますが、メッカでの競争社会に嫌気がさしたとか、幼くして亡くなった息子の死を嘆いていたとか、人生の儚さについて考え込むようになっていたのではないかと言われています。

そしてある日、ムハンマドは天啓を受けることになります。ここの描写がちょっと面白いので、紹介しますね!笑

伝承によれば、何か文字の書かれた布をもった天使ガブリエルが現れ、「読め!」と言う。彼は「読むすべを知りません」と応える。すると天使はその書き物で激しく彼を締めつけるので苦しくて死にそうになる。天使は手を離すとまた「読め!」といい、彼は「読むすべをしりません」という。

三度同じことがくり返されて、天使は最初の啓示となる言葉を伝えた。

参考:中村廣治郎『イスラム教入門』

いやガブリエル怖すぎwwww ちなみにこの後ムハンマドは、あまりの恐怖に妻ハディージャの膝にすがりついて泣いたそうです。よっぽど怖かったんだね…!

しかしそこは15歳年上のハディージャ。夫であるムハンマドを「神の預言者」として支える決意を固めたそう。

つまり、イスラム教の最初の信者になったのは彼女だったというわけですね。(あれ、いい話…)

イスラム教のはじまり

そんな経緯があって、ようやく預言者としての自覚が芽生えたムハンマド。

…が、やはり最初は怖かったので、布教は身内だけに留めていたようです。

公に布教し始めたのは、天使ガブリエルに 恐喝されて 導かれてから3年後、西暦613年ごろでした。

このときムハンマドが説いた教えは、

  • 偉大な神の力と恩恵を感じよう
  • もうすぐ「最後の審判」があるからもっと危機感を持とう
  • 偉大な神に感謝し、祈りを捧げるのは人間の義務だよ
  • 弱い人や貧しい人を助けるのはめちゃくちゃ大事

ってなかんじ。すごくイイこと言っているように感じるのですが、これは誇り高きアラブ人にとっては屈辱的な内容だったようで、ムハンマドは迫害されてしまいます。

誇り高きアラブ人の心の乾きと「ベドウィン」について

イスラム教発祥の地となったアラビア半島には大きな砂漠があり、そこで暮らしていた遊牧民は「ベドウィン」と呼ばれていました。

彼らは砂漠の中で交易をする商人で、自由な砂漠の生活を愛し、外からの束縛や支配を嫌っていました。

基本的に「部族」で団結していましたが、その生活は豊かではなかったので、しばしば定住民や他の部族を襲い、食料や酒、若い女性を略奪をして暮らしていたようです。

そういったルーツをもつ彼らは、商業で生活基盤が安定してからも快楽主義な生き方を続けていました。

これを批判したのが、ムハンマドの説いたイスラム教だったというわけ。

「どうせこの世は一生かぎり。生きて死ぬ、ただそれだけのこと。「時」がわれらを滅ぼすまでのこと」などと彼らはいう。この連中はなにも知らずに推測でこういう道を進んでいる。

『コーラン』第45章

彼が説いた「最後の審判で神の国に行けるように、生きているうちに善行を積もう」というイスラムの教えは、部族同士で絶えず争いあっていた彼らの乾いた心を満たすものでした。

しかし同時に、アルコールを禁止したり、女性に対する扱いを厳しくしたりと、それまでのベドウィンとしての生き方をガッツリ否定する教えでもあったので、反対勢力もまた大きかったというわけです。

祖国メッカを取り戻せ!

そんな経緯もあって、生まれ育ったメッカの地を追われることになったムハンマド。

彼はやがて、メッカから北に350㎞離れた「メディナ」という街にたどり着きます。

ここも部族同士の争いが絶えない街でしたが、ムハンマドはここで政治の才能を開花させます。なんと抜群のリーダーシップを発揮して彼らをまとめ、部族の壁を越えた「イスラム共同体」を作ることに成功しました。

また、ムハンマドには軍事的なセンスもありました。団結したイスラム共同体を率いて、さまざまな部族と戦い、勝利を重ねていきます。

そしてアラビア統一へ

そしてついに西暦630年、ムハンマドは故郷メッカとの戦いに勝利し、この地を治めることに成功します。

このときまでアラブは多神教で、メッカの神殿にはさまざまなアラブ神の像が置かれていましたが、偶像崇拝を禁止していたムハンマドはこれらをすべて破壊。メッカの民をイスラム教で統一したのでした。

これによって彼の権威は一気に高まり、数々の民族がイスラム教の教えを受け入れていきます。各地では弱き民を救うこと、互いに協力し合うことが守られ、イスラム教徒の献金によって、アラビア半島の社会的なインフラは一気に整備されていったそうです。

しかし、ムハンマド自身は、そんなアラビアの発展を見ることなく、2年後の632年に息を引き取ったのでした。

「法で民を束ねる」教え

というわけで、イスラム教の開祖である預言者ムハンマドの生涯について、解説してみました!

彼の人生をまとめながら感じたのは、『キングダム』の主人公である政(後の始皇帝)に似ているな、ということ。(読んでない人、スミマセン)

彼も争いの絶えなかった中華を「法」によって統一し、戦争をこの世から無くすという理想を掲げて奮闘していましたよね。

ムハンマドも、略奪と戦争に明け暮れていたアラビアの民を「武力」によって制圧し、「イスラム法」によって治めました。

イスラム教では、宗教とは法である。

『日本人のためのイスラム原論』

このイスラム教国はやがてオスマン帝国となり、ヨーロッパ~西アジアの頂点に君臨することになりますから、その影響力は計り知れません。

神を信じるかどうかではなく、文化的な生き方のルールブックとして根強く信仰され続けてきたイスラム教。2050年には「世界でもっとも信者数の多い宗教」になるというデータもありますから、ムハンマドの功績は覚えていても損ではないと思いますよ~!

それではまた、次の記事でお会いしましょう。信ちゃん(@shin0329)でした!

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