現代人のルサンチマンを、信仰の灯りで照らしてみる|八つのほこり「うらみ」について

現代人のルサンチマンを、信仰の灯りで照らしてみる|八つのほこり「うらみ」について

信仰のある暮らし

こんにちは!『今日も信仰は続く』をご覧いただきありがとうございます。桑原信司です。

気軽に信ちゃん(@shin0329)って覚えてもらえたら嬉しいな。

先日、こんな記事を見かけました。ご飯のおかわりが無料の「やよい軒」で、試験的におかわりを有料化した裏側には、「他人の得が許せない」人が増加しているのではないか?という内容です。

要するに、「おかわり」をしない人にとって、

同じ料金を払っているのに「おかわり」する人がいる=「自分より得をしている人がいる」

となり、それが「許せない」と感じる人が増えてきているそうです。

読んでいて、ちょっとヒヤリとしました。僕はどちらかといえば「無料でおかわりができるなんてラッキー☆」と思っちゃう能天気な人間なので…。

自分が不利益を受けるわけではなくても、他人の利益を不快に感じる。そんな心でいると、どうしても「生きづらさ」を感じてしまうのではないかな? と、勝手ではありますが心配しています。

そこで、こんな時はどうやって心の向きを変えるのか、僕も一緒に考えてみました。

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心理カウンセラーの見解

心理カウンセラーの大嶋信頼さんによると、こういった相談に訪れる人の多くは

  • 「他人の得が絶対に許せない」
  • 「いつも自分が損ばかりしている」

という気分になっている人が多いそうです。そして、この社会には、そんな気持ちに苦しむ人たちがあふれ返っていると分析しています。

そんな人たちの多くは、『弱者がすることは正しい』と思い込んでしまい、相手に対して攻撃的な態度をとってしまう傾向があるのだとか。

参考記事内では「これはルサンチマンという言葉で説明がつく」と話されていたのが印象的でした。

ルサンチマンについて、わかりやすく

ルサンチマンとはフランス語で「強者に対する弱者のねたみや恨み」という意味の言葉です。

「神は死んだ」で有名な哲学者ニーチェが、これを語るうえで持ち出したことでも有名になりました。

ルサンチマン【ressentiment】

①ニーチェの用語。弱者が強者に対する憎悪や復讐心を鬱積させていること。奴隷道徳の源泉であるとされる。

『広辞苑』第6版

めちゃくちゃザックリと説明すると、このニーチェという哲学者は、

「神」=「社会的弱者が強者にマウンティングするために創りだした概念」

だと考えました。

確かに、キリスト教でよく言われる言葉のなかには「貧しき者こそ幸い」「富める者が天国に行くのは、ラクダが針の穴を通るより難しい」というものがあります。

これにより、社会的弱者は「あいつら(強い人間)は、確かに今は裕福だけれども、いつかきっと地獄に堕ちるのだろう。あぁ可哀そうだ。」と感じられるわけですね。

一見、自分を虐げるものにまで慈愛の心で接しているようにも見えますが(だからタチが悪いのだけど)、勝ち目のない敵を憐れむことで、実は自分が上に立っているというマウンティングが成立するわけです。

ニーチェは、この考え方の根底に「社会的弱者が強者に対して嫉妬し、憎悪する気持ち」つまりルサンチマンがあるんだと述べたわけですね。

現代人のルサンチマン

先述の「やよい軒」の一件以外でも、この社会的弱者のルサンチマンが背景にある行為は数多くあります。

特に、匿名掲示板やSNSにまつわるエピソードなどはそれが顕著かもしれません。

自分はこれだけ苦労しているのに、苦労していない他人を見るとイライラしてしまう。他人が幸せアピールをしてくることが不快でたまらない。

だからつい攻撃的なコメントをつけたり、別の場所にさらして悪口を言いあったりする。そんな行為が当たり前のように繰り返されています。

そしてこれらの行為の多くは、無意識のうちにやってしまうので、その後も意識的な制御がきかずヒートアップしてしまうことがあります。

「自分がこれだけ大変な思いをしているのだから(相手はそんな思いをしていないのだから)、これくらいは許されるべきだろう」という心理が働くためです。

また、これらの衝動には「本来の問題からは逸れているため、改善すべきところがズレている」という問題点があります。幸せそうな人に嫌な思いをさせるために画策したところで、自分が人生が改善されることは、おそらくないでしょう。

しかし、それが個人の努力では改善が難しいケースであることも多く、非常にデリケートな側面も持ち合わせていることも事実です。

天理教ではどう捉えるか

僕が信仰している天理教では、このルサンチマンは「心の埃」のようなものだとされています。

「埃」それ自体は、吹けば飛びそうなくらい軽いものですが、油断して掃除を怠っていると「心」を汚してしまいます。心が汚れてしまうと、さまざまストレスの原因となり、次第に「生きづらさ」を感じるようになってしまいます。

なので、できるだけ「心の埃」をためないことが大切…ではあるのですが、これも部屋の埃と同じように「ためないようにする」ことが難しいものだとも教わります。

確かに「人を全く恨まないで生きていく」ことは、現実世界だとちょっと厳しい。誰もが聖人君主にはなれないのです。

それはもちろん、信仰者である僕も例外ではありません。だからこそ、汚れてしまいがちな心を掃除して、ルサンチマンを払う機会が僕らには必要なのです。

心の埃を払う方法とは…?

ではどうやって「心の埃」を払うのかというと、僕が信仰している天理教では「おつとめ」という儀礼によって払います。

各地の教会ならば毎日「朝づとめ」と「夕づとめ」が行われており、僕が勤務している教会でも決められた時刻にしています。参拝料などは必要ありませんので、参観してみたい方はぜひお気軽にお問い合わせくださいっ!笑

ちなみにこの「おつとめ」、一体どんなことをする儀礼かというと…歌と鳴物に合わせて手を振る、という儀礼になります。所要時間はだいたい20分前後といったところでしょうか?

このとき、神様に「生かされて生きている」ことへの感謝を申し上げつつ、また改めてお願いをします。その際に「心の埃」を払う動作を繰り返します。

これが信仰者にとって「心のメンテナンス作業」になり、日常生活でついつい汚してしまった心を綺麗にして、また陽気ぐらしに向かって生きていけるきっかけになります。

いつだって人と仲良くたすけあって生きていきたい僕の、大切なルーティンです。

気が付いたら終えてた、なんて日もちょくちょくありますが…!(慣れって怖いですね。笑)

それではっ!

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